長く関わっていると、いろいろなお話を、ご指導と共に賜わったものです。
明治時代から射撃をしていたという古老たちから丁寧な物語を伺えることもあれば、鬼軍曹、鬼教官、鬼教授鬼コーチ鬼商人と百鬼夜行の渦中に身を置かざるを得ないこともあり、実に悲喜交々といった心象です。
殆どの方は既に黄泉の方となっておいでです。御冥福をお祈りすると共に、多くの御厚情に感謝する為、伺い知ったお話を時代系列に整理しておきたいと思います。ただ、年号が本当に正しいかどうか、数多あり過ぎて確認が充分とは言えません。各自で適当に調整して下さい。

日本で銃器規制が始まったのは、1542年種子島に鉄砲が伝来した直後だったといえるでしょう。種子島氏が譲り受けた鉄砲を領内で複製量産をするにあたり、その製造技術を秘匿して藷領の収益に結び付けるべく育てたことは規制そのものです。
全国規模の武器規制となると、一揆という暴動の予防に根ざし豊臣秀吉の幕府が刀狩をしたのが初めてのものです。その後、江戸徳川幕府は、幕府と諸藩が鉄砲改めと呼ぶ見知をしてその所有の確認をし、規制に結び付けました。取り敢えず形式としては武士のみが鉄砲を扱えるとしておき、他の身分の所持は狩猟を業とする者に許す猟師鉄砲と、農業上の有害鳥獣を駆逐する威(おど)し鉄砲と呼ぶ認可に限ることとされました。これによって市街からの火器の除去は大体完成しましたが、農村部にはかなりの鉄砲が残されました。時代は下り、幕末になると、対外防衛の必要から規制を弛める触込みをし購買や登録を促しますが、結果として大量の鉄砲が出て来て、緩和によって増えたのか、隠し持っていた鉄砲が外に出たのかについて歴史家の間では議論になっています。ただ、何世代も銃器に関わった家系の談によれば、当時の鉄砲鍛冶は破格の高所得があり、製造数や納入先の開示調整等は接待買収によって随時行なうのは常識、鉄砲仕舞の後もアングラでどんどん売ったのだという物語もあります。見つかったところで鉄砲鍛冶は伝家伝承の限定業種、処分等しようものなら所領の安寧に関わる為、歯ぎしりしつつも見送るしかない...。明治政府は幕末と変わらない態度で鉄砲に接していますが、都市と農村の形式的区別はしません。1872年に銃の所持許可制を現わした銃砲取締規則を発布、1899年関連諸法を統合した銃砲火薬取締法に改訂、その後1910年の改正から1945年の敗戦迄適用される(明治43年法律第53号)規制は、銃の販売・所持・譲渡・運搬・携帯を各々許可制としましたが、細かすぎてザル化し、市中ではありとあらゆる銃器が方々で販売される有様(マシンガン迄売っていました)であり、許可も差程煩いものではなく、購買許可を受けられる人に代理で買ってもらう等、結構いいかげんに運用されていたようです。
有名な村田銃は、明治13年(1880年)に日本軍が正式化した近代歩兵銃を猟銃に改造したものと思われていますが、似たような形式のものを纏めてそう呼んでいると言うのが実態です。名の元となる村田経芳氏は幕末から明治に掛けての銃器技士で、欧州を歴訪して情報を蒐集、十三年式村田歩兵銃を完成しますが、猟銃としてはほぼ同時期、なおも一般猟用として生産されていた火縄銃に氏の設計した踝物を取り付けて後装銃とし、近代的実包を使うことを勧めたことに始まります。ところが猟師たちは使い慣れた先込めの火縄銃から得体の知れぬ金属製の実包を自製して使うことに躊躇い、余り売れません。十年もして先の十三年式が旧態化すると、明治政府は軍費調達の為に旧式となった十三年式のライフリングを半分刳り貫いて見かけ28番径の散弾銃として売り出しました。馬鹿に沢山十三年式を溜込んだ政府が、銃身を全部刳り貫かなかったのは、そんなことをしたら「当たらなくなるのでは」と思ったからだそうで、余談に余談が重なりますが現在、散弾銃として認められる銃器には「銃身の半分迄」ライフルがあってもいいことになっている元ネタだそうです。タイミング的に当時のベルギーのブローニング5連銃やイギリスの水平二連に比べ異様な安値であったことと、段々と後装銃への認識が徴兵帰りの者から伝播していったこととで今度は一気に浸透しました。それに気を良くしたか村田氏は自分の設立した会社で引き続き売れ残っている十三年式を28〜36番散弾銃として完全に刳り貫いたものや、今迄の半刳り貫きを全刳り貫きとする有償改造、はたまた最初から12〜40番散弾銃として作ったものを売る他、市中の銃工房にライセンスを売って同型品やその薬莢等属具を生産販売させる権利売りもし、こうして広まったボルト式単発の散弾銃を村田銃と纏めて呼んでいるものです。これらは、鉛の塊を溶かして弾丸から自製していた当時の職猟師の運用コストや庶民レベルのレジャー猟の目的コスト双方に旨く適ったことと、結果として普及し部品類の供給に全国の銃工房が慣れたことの相乗効果が齎したものであり、日本独自の銃文化のひとつで、1990年に薬莢製造業者が完全に居なくなる迄続いた長いトレンドでした。現在でも許可を継続し持つ人はおり、これに使う黒色火薬はあり、雷管も「ハヤブサ印」の信号用雷管が売っているので、使おうと思えば使えます。
閑話休題、その時代は、輸入銃器は大層高い関税が課されていた上、洋行ものは一般に破格の高額を容認されていたことから持てる人は限られていました。国産品も広く名を知らせるものは高価でした。その穴埋めをするかのように、市中に於いて安価な猟銃製造が流行ったもので、例として横浜1ケ所をとってみても戦前は30以上の猟銃製造者がおり、主に元折れの単身・水平二連散弾銃が製造販売されていたようです。さらに密造(というよりむしろ工房の簿外製造)や密輸販売(洋行業者の手荷物)、造反的販売(村田式も結構勝手に作られたらしいし、貿易商の従業員が勝手に余計に輸入して自分で売ったりした)も含めるならその数はもう未知数、挙句銃器商流通はきちんと登録の手立てを提供したものの、並行する雑貨系流通の方では「許可のことを知らない」等、ほぼ滅茶苦茶だったという話も聞いでおりますので、実際に流通したものが登録数を大幅に凌ぐことは容易に想像出来ます。規制があると言われる反面、実際その時代生きた人の多くは一寸稼いだから鉄砲でも買ってみようか程度の気軽さで買ったものだと話しており、もう撃つとか使うとかいう目的次元を通り越し、購買こそ全てでそれで完結してしまう一種の無駄遣いが多かったらしく、戦時中の供出令の時に惜しみなく処分されたとも伺っています。
1943年帝国政府は戦時体勢として猟銃の輸入及製造販売を不要贅沢品として一切禁じ、流通そのものが滞ることとなります。職猟師は装薬の入手に困り、早々に牧畜等をして凌いだと聞きます。敗戦すると、混乱とその反動で旧日本軍から盗まれたり密売された軍用銃が大量に出回ったらしく、それを塞ぐように1946年6月15日、GHQ発布の銃砲等所持禁止令(昭和21年勅令第300号)が空気銃や職業狩猟用等を除き民間の銃の所持を禁止しました。職猟師から銃を取り上げなかった理由は、駐留軍人や軍属・貿易商人など特権階級者が、狭い乍らも多くの鳥獣に恵まれた占領地での自由猟の案内人としてそれらを利用する為だったという話で、占領期間に乱獲が進んだ何種かの日本固有種が絶滅かその危機に瀕しています。
日本政府が連合国から政権の還付を受けた後、銃器刀剣を取り締まる新たな法規を1950年11月30日に銃砲刀剣類等所持取締令として発布、所持許可を再開しますと、その機を待って製造輸入が再開され、乾き切った土壌が水を吸い込むかのような、爆発的猟銃ブームが起こります。それを牽制するかのように1958年には銃砲刀剣類等所持取締法(現在に続く銃刀法・昭和33年法律第6号)を定め、1965年の改正で銃砲刀剣類所持等取締法改称、その後改正を重ねて現在に至っています。その経過において、所謂不法所持となっていた日米の軍用銃や戦前からの残存品が実態としては所持者の世代交代によって不要化したり、申告登録を完結し鎮静、その後は暴力団や、犯意のあるなしに関わらず一般人の改造・私製・輸入が主な不法所持として検挙されています。
銃器に掛かる税制の面でも、戦前は職業用とみなされない銃器には高額の物品税が課され、戦後の所持解禁以来も1988年消費税施行迄は猟銃に対して30%に及ぶ高額な物品税が課され続け、輸入銃器にはその他高額の関税が課されておりました。輸入の猟銃に関しては長くその販売価格の半額程度は税金だった時代が続いたものの、輸入品優位の一般認識が先に立ち、国産の次は輸入という舶来優等意識の定着を誘いました。この思想は「破壊的」とも思えるもので、同じ性能同じ形式のものが内製と輸入では3倍以上もの値開きであり、並品以下のものが外国製というだけで偉く高額で買われていました。東ドイツのものなどは並品以下の普及性を求めるものでも真面目で使い易く味のある製品が多かったのですが、接する価格のスペインやその他東欧の製品はまるで乱造で、散弾銃の左右の銃身でこれほど狙線が違うかと呆れる程のもの、銃身外部がデコボコで美観も何も有り得ないもの、さらには踝物の外中ともバリや粗目のヤスリ傷だらけのもの等多数で、製造方の売らんかな主義をあからさまに覚えるものばかりが目立ち、輸入販売者の悪意さえ感じたものでした。その為少し余裕が出来たら、戦前からの憧れのアレということで、結局ブローニング自動5連や英国の水平二連を求められ続けたと言うから、何時迄経っても変わらない云々とも思えるところです。

現在日本の銃規制は、主に銃砲刀剣類所持等取締法によります。同法は拳銃・小銃・機関銃・砲・猟銃等、金属性の弾丸を発射する機能を有する装薬射出器具及び空気銃を銃砲とし、一定の場合を除いて所持を禁じています。これは世界的にも希有な程厳しく、そのため銃による殺人事件は全体の3〜4%と世界で2番目の低い値です。またそのために狩猟や競技射撃の認知度が非常に低いので、銃器そのものの所持が完全に禁じられていると思い込んでいる人も多く(オリンピックで撃ってる人は皆警官でしょと言われたこともあります)、加えて事件が起きた地域ではさらに規制が強まるため、一般市民が銃器を所持している割合は0.3%程度と世界で最も低くなってしまっています。この状況から、暴力団系抗争事件等を除いて銃器を使用した事件が非常に少なくなり、銃器というモチ−フについては温厚になって、完成度の高い銃の模型や玩具が現れることに繋がりました。銃が一般に普及していればそれに対する危険意識は自ずと強まりますが、厳しい規制で衆人の目から遠離っていることで遊戯銃文化を育てているのです。
日本の政党や政治家には、今のところ銃規制に反対する人は殆ど居ません。稀な例として西村眞悟衆議院議員が銃の携帯を国民の基本権だと主張している程度です。多少類似する意見としては、規制が有害鳥獣の駆除の邪魔となっていると主張して、ライフル銃の所持要件を一部緩和せよという議員もいましたが、隣席する農水系議員らは別段迎合した様子を見せていません。重ねて、日本の自治体首長の多く、また首相経験者も銃器とかなり親和性のある生活をしている経緯はある(石原都知事・麻生元首相など)ものの、そのうち誰一人、銃器を用いる行為、スポーツ・狩猟何れに対しても緩和を示唆するような発言をしていませんが、その実施者から見れば大変賢明なことで、上から打込むより、下から持ち上がって来るのを待つ方が以後有用な行政管理に結びつく例は多いのです。但し、痛みを伴わないモーションは逆効果で、むしろ待たれているのは、失敗すると破綻を誘うような強いモーションつまり少数でも私財を投げ打ち会社を興す等した上での陳情等と感じます。
日本で真正の銃器を所持する場合でも、グリップがバットストックから孤立している軍用小銃型の銃の所持は認められない等、寸法や装弾数ばかりで規制を受けるものではありません。曾て米軍正式小銃であるM16のスポーツタイプ市販品に許可が下りた例がありますが、口径6mm以上とすることと、ストックをサムホールタイプに改修することが条件とされた経緯があります。しかしその後そうした軍用の改訂版民生銃に軍用の部品を使って改装したりする実態が犯例として上がったことなどで、現在はそのような可能性を匂わせる銃器の許可を受けるにはいろいろ困難があります。
所持許可の申請受付並びにその遂行に関しては、そもそもが窓口となる所轄署生活安全課の担当職に一任されています。元々銃刀法の謂うところは銃器に関して面一に所有を禁じていて、一部必要と認められる場合に限り許可され得るものなのです。つまるところ、申請者は、規定の書類の中において身上の適正を訴え、持たせて下さい、使わせて下さいと願うべきところにおり、持てない理由を述べよ等と詰問する権利は持ち合わせていないと解釈するところです。上位部署より認可や審査に関して共通させることを強いる指令は与えられておらず、むしろ窓口でのコントロールを奨励するようになっているのです。彼に下りたが我には下りないとか、あそこでは下りたのにここでは下りない等の例は数多ありますが、何れにおいても然るべくして正しく受理されている結果ですので御間違いのないように願いたいものです。どうしても許可して欲しい場合は日参してでも拝み願う、または平時より所轄の活動に親身な協力を惜しまない態度を示す等、自身の社会機能を発展させ理解を得る精進をお薦めするものです。