長く資料を探していました、これが学習雑誌の通信販売で求められたその現物です。
とはいっても、ソノモノではなく、それを買った人の父君が撮影した写真を貸与される機会に恵まれました。その古い白黒写真を写真に撮ってトリムしたものを掲載します。如何せん御高齢な為、次回の面会が叶わないかも知れないので、さっさと写して御戻しした次第。

お話も伺えましたので御紹介しましょう。

これを購買した元になった雑誌の名称などはお忘れでしたが、値段は百円と当時としては偉く高額だったもので、数カ月お父様に御強請りし続けて漸く買って貰えたそうです。時は昭和14年、8才の時にたまに購読していた雑誌の通販ページに掲載されていたそうです。兎に角購買が叶ったのは、父君は英語が達者で小規模な貿易で稼いで、しょっちゅう外国製のカメラやら時計やらを買って来ることが出来る人だったらしく、つまりお金持ちで、物好きだったからのよう。この写真も、身の回りのものを手当り次第に写真に撮っていた父君の遺品の中に残っていたそうです。
銃の話より先に、苦情がタラタラと現れました。
やっとの思いでお金をもらって、郵便局で為替を買って、書留で売り主の雑誌の発売元に送ったところまではまあ良かった。ところが二ヵ月待っても音沙汰なしなので、父君に叱られ、版元に葉書で確かめたら返事があり、注文を受けて作っているところなのでもう暫く待って下さいと返事があった。それからまた二ヵ月もして夏休みが終わろうとする頃、また手紙が来て、出来上がり次第発送するからもう少し待ってくれと言われたそう。
漸く手許に届いたのは、秋も深まって学校ではテストテストで全然余裕がない時だったからこれを持って遊びに出かけるどころじゃなかったワイ、です。
銃が手許に着いて、付属品には手入れの油や筒に布を通す棒、説明書と挨拶状、弾がひと袋。挨拶状は大人向けかと思う程漢字だらけで父君に読んでもらわねばならないような書面で、これで狩りや標的射撃の腕を磨き高尚な世界へ旅立って下さいみたいなことが書かれていたのを覚えていらっしゃいました。
問題はすぐに発覚したらしく、このことも延々と伺いました。
先ずは弾だったそうです。規格の表記が説明書には全くなく、付属品の弾を使い切ってもとても命中を体感するに至らなかったので、町に弾を買いに出たら、それこそ何処にも売っていない。文房具屋に話したら、多少通じて、せめてそのモノがあれば何か捜せるかもというので、最初に射撃をした中庭を探しに探して何とか一個回収して持っていったら、これが使えるかもと売れ残りから缶入りの外国製の空気銃弾を捜し出して来てくれたそうです。しかし問題はその程度では済まず、うちに帰って銃に込めようとしたら大き過ぎて入らない。缶には177ゲージとあり、父君は4.5mmの空気銃の弾だ間違いないといったそうですが一向に入る気配がない。慌てて今度は説明書の製造元に葉書で問い合わせたらまたひと袋無料で送って来てくれたので、買って来た缶入りのと比べるとどうにも小さかったそうです。変に思った父君はもうお前に任せておけないといって自ら手紙でお問い合せになり、返事を得られたそうです。その返事と言うのがこれまた子供にはどうにもならないことで、売っている空気銃弾は4.5mmですが、そのまま売ろうとするとその筋の業界、つまり銃の方の業界から圧力が掛かり、仕方なくそれが込められない大きさ迄内径を小さくしたそうです。結果4.2mm迄縮めると入らなくなり、許可を貰えたので、改めて弾の方を設計し、銃に合わせて作ったが、型が複雑で数が作れず、量産出来ていないので、必要になったら言って下さいという、なんとも頼りないものだった。そこで父君は、真鍮の板を2枚と棒を見つけて来て寄越し、缶詰めの弾を板に挟んで転がして、入る大きさにして、一個づつ棒で銃身をくぐらせて形を合わせてから撃てば良いと教えてくれた。成程そのようにすると弾は小さく出来るし、途中で停まってしまっても押し出せる。停まってしまう理由はどうやら弾の脇から空気が漏れてるからのよう。転がし過ぎて小さくなり過ぎたのだろう。何せ個体差が避けられない方法だから。停まった弾は真鍮の板に立てて少し押せば具合よく出るようになる。茶の間の向こうの端の箪笥に的を貼って撃ったら跳ね返って来て自分に当たるわ母君に叱られたりするので、紙で箱を作って、箱の中に古紙を丸めて入れて釘で引っ掛け、それに的を貼れば中に弾が残るようになったので再利用出来るようにもなった、とまあ随分苦労はあったろうが器用な人です。何しろ八才でのことですから、愈々頭も良かったとしか思えません。でもそうして練習するうち、弾も上手に作れるようになって、いい加減一寸程度の丸の中には満足に納められるようになったから、中庭とか茶の間は卒業して持出し、小鳥やりすなどを撃つようになったそうです。ところがこれまた一つも捕れない。要はその程度の所謂威力だった。それでは詰まらないからと、釘を火で炙って弾の先に差し込んで、それをヤットコで切って先を尖らせたものを使って無理矢理射獲に導いた。いうなれば鋼芯入りの徹甲弾を自作したのです。最初の獲物は雀で、父君が大層喜ばれて早速焼いて夕飯の折に一口づつ家族で回して頂いたことは忘れられないといいます。
問題はまだまだ現れたそうです。そうするうち当りのばらつきが、どうやら射撃技術に関係することばかりではない程になって来て、銃を分解してみると、空気を押すピストンの先の革のパッキンが減ってしまったようだといいます。製造元に手紙を書くと、また部品だけ送ってくれたものを着けて組んでみると、渋くて満足に動かなくなってしまった。またばらして取出して、油で湿らせて柔らかくして着けると動きは戻ったのでまた撃ち始めると今度は筒に油が回って弾が弱くなったりやたらと弾着が下がったり暴れたりし始めた。ばらして拭き取って、筒も布を通して油を落としてと散々やって当りが回復してもまた油が回って来る。途方に暮れてあちこち聞き回ると靴屋が油を蜜鑞か何かに換えてみろというので、やってみたら、ぴったり油の噴き出しが治るようになった。安心しているとまた当たらなくなったり弾が停まるようになった。これは直ぐに銃身とシリンダーの間の革のパッキンがヘタッタ為と分かったもののどうやって治せばいいか分からない。これも革だからと先の靴屋に相談すると、靴屋は革をドロースに浸して暖め、切り抜いて孔をあけてパッキンを作ってくれたが、これは調子が良く当りが回復しその後永く持ったということです。

このくだりを聴くうち、私はナルホドこれが学習雑誌の通信販売品たる所以ここにありと感じました。恐らくこの品を企画した編者は射撃ということに痛く精通していた達人だったのだろうと思います。

当時の銃器業界にあった空気銃のまともなものは全長四尺三寸つまり140cm程にもなる大型のもので重量も二貫目以上5キログラム程度もありました。これではとても子供には持てない、序でに値段も三百円以上もするものだから尚更手が届かない。だからといってもっと安いライフル銃はというと、兎に角力が強過ぎて撃つ場所を選び過ぎる。これでは射手は育てられないと感じたのでしょう。この写真の主に重さのことを尋ねると、ナンも苦労しない全然重たくなかった、2キロもなかったんじゃないか、今持っている空気銃よりずっと軽かった筈だ、とのことですし、長さは、というと1メートルなんて全然、もっと短いよオレ自体チビだけどそれが持っても大人の兵隊さんが38式を持っている風体と変わらなかったとも仰るからには、この銃はかなりデフォルメされたものだったと思われます。また普通中折れ式のスプリング銃は、大の男でも慣れる迄は銃を折ってバネを圧縮するのにとても手こずります。こちらの方も、その八才が普通に言われた通りに直ぐ出来たそうで、愈々これは子供の為に無理矢理作られたものだったことが推察されます。

それだけ程度なら、銃器趣味雑誌など位が喜んで書きそうな感じです。これを売ることを企図した人の頭の良さはもっと深淵です。

結局今で言うなら十万円にも及ぶであろうこの高額な玩具は、それを使用し得る為に、伺った先のお話を最低限実施せねばならないのです。時はまだ電話さえ一般には手の届かない時代。庶民の家にはラジオさえなく、この方のお宅には人気番組を聴きに近所の人が集まったのでラジオは玄関先に置いてあり、玉音放送の時は町中の人が来たとのことです。この銃を使いこなす為には、遅い返事など都度待っては居られませんが確かに最低限の尋ねは必要です。でもさらなる時間を獲得する為には、町中を尋ね歩き、多くの大人から知識を貰い、材料を探し、道具を使い、時には怪我もし、試し、或いは叱られ、または強く教示され、それでも負けずに見つめ続け、習い続け、試し続ける。そうすれば待つ時間はまた短くなっていく。これはまさに勉強そのものですね。もし投げ出そうものなら、これを買って与えた親御さんなどが到底許しそうもないし、本人にもそれ応分のプレッシャーが掛かります。何とかモノにして、的の真ん中にどんどん送り込まないと、何か獲物を持って帰らないと、買ってくれたお父さんなりに喜んで貰えないから、頑張ろうと心する。

そのことを知っていたからこそ、子供の雑誌の通信販売にこれを盛り込んだのでしょう。

人間誰しも社会から暮らしを守ってもらえる程の働きを提供するには、誰かに喜んでもらわなければならないのです。その為に働くにしても、資本はもとより自ら用意出来るものではなく、誰かから提供されるものなのです。道具にしても、材料にしても、またそれらで作り出したものごとが流通するにしても、一人の新人の力では到底それらを根底から作り出すことなど出来ません。人間は、いつもそれら先んじて与えられたものごとに報いていくから生きていけるのです。この方は、高価な銃を買ってくれたことに報い、結果雀を捕って帰りましたが、そのことは祝われる程の快挙でした。その後戦地へ赴かれることになったのですが、急遽年令を下げた徴兵にも拘らず射撃の成績は教練の段階でも称えられる程高く、戦場から生還出来、戦後狩猟や射撃が解禁された後はそれらの後進を教え多くを育てました。その行いをこの方の御両親は最期迄誇られていたそうです。もう二十五年も前のことですが、挙げ句私はこの四十年近くも歳の離れた人とクレー射撃の決勝でサドンデスに相見えることになり、私という若者に勝っていくのでした。化学者として私の事業の大先輩でもあり、私程度でも多くを学び導かれましたが、当然その他同業関係者もその教えに育てられたことでしょう。多くの人間が、これで育ったこの方から幸福の種を貰い育てることが出来たでしょうし、その家庭から、また次の世代を担う人材が、事実既に大勢輩出されています。私が今お世話させて頂いている射撃のサークルに関しても、やれることはどんどんやれ、役立てるならどんどん役立てと叱咤してくれた方でもあります。

私も子供のころ多くの大人に会いましたが、マトモに責任ある教えを呉れた人は実は皆狩猟や射撃を深く体験した人ばかりでした。この写真の提供者は、勿論その信頼し得る人の一人です。私が昔から通販の空気銃のことを気にしていたことを覚えていて、何十年掛けてこの一枚の写真を捜し出してくれたのです。当の私は忘れていました。でもこの方は覚えていました。私の話に乗り込んだことに対して責任を果たしてくれたのです。

如何にして、こうなることを、たかだか通販の、教材の銃に託し得るのか。いや、それを読み得るのか。教育者も此処迄来ると最早神そのものです。

この銃を何処にやられたかも一応伺いましたが、戦争が終わって帰宅してみると、自室にと父君が庭に作ってくれた離れの小屋から目立ったものが無くなっていた。どうやら盗みに入られていたらしく父母は勿論他の家人もそのことにそれまで気付かなかった。この銃のことは一際心にあったので、真っ先に探してみたが見つからなかった。多分盗まれたのだろう。というお話でした。

後先のようですが、この銃での射撃法に於いて命中を采配するには、あくまで銃を掴まず、左手の掌を広げた上にそっと置いて支え、右手は握り込まず、引き金の重さに従い小指から引金指に向かって順次絞っていくようにし、切れる手前で留め置いて照準し、狙い込めたら引き切ることだそうです。銃を掴んで狙うと、それこそ何処に弾が飛んでいくか分からない。何よりこの方法を見つけ出すのに苦労したそうで、教えてくれる人でも居れば幸いだったろうにといいます。然し乍らこの方法は全ての銃器で共通していて、後に教練に就くと、その一発目から命中させ、教官を驚かせたとか。他の皆は銃を握るな絞り込めと言われても何のことかさっぱり分からず、ひとしきり殴られるのに、彼は一発も拳骨を喰らわなかったとのこと。これは何も時点で既に射撃を体得していたからではなく、何事に於いても先んじて学び切っ掛けを早く得ておくことが肝要ということで、その後大学の教授を仰せつかったり、化学企業の役員を請けたりした時には、学生や社員たちに常に説き続けて来られました。
どうやら私もその一人だったということでしょう。