元々人間は純粋なものです。時計に関しては、今でもそこそこまともなものは、ぜんまいで動くものに関して言うなら30万40万といった額なので、そうおいそれと買えるものではありません。でも人は「正確な時計が欲しい」といって何とかそれを捻出しようとします。今ならば身近な別のソースからいつでも正確な現在時刻を得ることが出来ますので、それなりでもいいといえます。しかし、19世紀から20世紀に掛けては、大方時間管理は今のようなものだったとはいえ、正確な時刻はその地域で有名な何か規準になる大きな時計から得る程度しか出来ず、何日もそれが見られない環境で数日振りにそれに見える時迄大差ない時間を刻んでいることを強く求められ、その可能性があるのはそれなりに大型の安定した動作をする懐中時計とされていました。現在とは社会習慣や道徳が大幅に違う時代、それを要求されるのは主に男性だった訳で、成程男性程時計の正確さにこだわったのは理解出来ます。元々時計は大型のクロックであれ精密機械であり、とても高価な大時計をいつも身近に据え付けておける環境を持っていない限り、正確さを求め得る大きさのある、小さくてもそれなりに高価で資産価値もある懐中時計を、振動や衝撃挙句水や埃に晒される虞れがある腕に巻き付ける等余程の金持ちでもない限り試す気にはならなかったのです。しかしながら女性は専らその装束にポケットがなく、時計は首に下げる等別の方法で持つ他なかったこと、また五月蝿い時間管理から離れていられたことで、早くから腕につけることをブレスレット等装身具の延長的にみることが出来、製作者もそれを見逃さず、それら目的の為に多少精度は犠牲にしても小型化して女性購買層や贈答品としての可能性を探る製品作りを続けていたものといいます。しかしながら小さなそれは、あるときふとしたことで止まっていたりすることを使用者に容認することを半ば強制される不安定なものでもあり、時代の男性は当然に敬遠することを良しとして年月を過ごしたものでしょう。
そのことが結局腕時計の発生も起源も定かにさせないことの解答なんですね。
時計は他の工業製品と異なり、必要普遍性が被服並に高い割には習慣にその重要度を采配され易い特徴があります。
今はその昔と異なり、女性も普通に経済・社会の活動に従事し、かつ生活の密度も高くなって時刻に追い迫られ、正確な時計は必要になっています。その割に時計を使う人は減っていますが、習慣的には必要でも、他に代用になるより利便性のあるものにその機能があれば集約する知恵もあります。
例として69年に実用化された水晶腕時計は、電池さえ替えておけばかなり長期間放置しても活動を損なう程誤差を発生しませんし、企業側努力でやがて安価になり基本機能のみに留めるなら雑貨として何処でも売られるようになりましたから、高価な高精度のゼンマイ時計に魅入る前にその額を別の方面に仕向けらます。これが所謂クオーツショックで、この後ゼンマイがほどける力で計時させる技術の如何がある意味で問直される時代が、今でも続いていることになります。
最近は携帯電話がコミュニケーションのマストアイテムとなってしまって、身に着けていないことで処罰こそされずとも生活上のいろいろな問題を呼び寄せるようになっており、全てのそれは時計機能を持ちますが、職場で携帯電話を持ち歩くことを禁じられている人でない限り、ともすれば成人の凡そが持っているこれを代用とされることを想像するのは簡単です。常にPCと向き合っている人は、隅っこに示される時刻を見ていればいいし、テレビやラジオは常に報時的番組を提供する。習慣としてこれら代用品に依存が移れば、経済活動の活滞の影響だけがその需要を左右ものではないことが窺われ、その美しさや技術力の高さ、況して尤も重要視されるべき精度が高ければよいという訳ではない時代になっており、格別の難しさを読むことが出来ます。

時計というものを商売としてみても結構ヤバそうです。
今でも多少は、新築祝い等に掛け時計を贈る人はあるようですが、結婚祝とか出産祝となると「迷惑がられる」可能性が高い「いやげもの」に成り下がる虞れが見隠れする時代になって居もしますし、入学祝いに腕時計を贈ることも、昔のように宛てがい斑が当たり前の夢の高価品なら歓迎されようものでも今では自分で選ぶのが基本になっているので憚られるものです。じいばあ、おじおば、ちちははから各々時計が来ても、当人にとっては迷惑千万なのです。
こうして需要を欠くだけ欠いた時計商の仕事は、本来は整備調整である筈ですが、極一部時計趣味が思い入れの品の維持する為にこれを利用する他に特別新たな需要が発生している様子は見られず、証拠にそこら中で廃業しています。やっていても殆どはメーカーの御用聞代理店となっていて店頭では分解掃除程度のことしかしません。多少なりとも夢のある、座ったまま出来る商売にも拘らず、新規参入はほぼさっぱりありません。
時を知るという習慣が、時に縛られると訝られ乍らもいやいや迎合する態度と思想がある程度定着している現代では、どんな形であれ時計を常に身近に置くことそのものが趣味の一つとされ始めているといえます。我が家は四方八方に如何なる構造であれ時計があり、別に腕時計等がなくても首を回さなくても今が何時か分かるのですが、客人に言わせると病的に時計まみれだそうです。さらに机上に常に十個もありカチカチなっている様迄見れば、好きの度を超して何かに取り憑かれていると思うそうです。極稀にそれらを見て時計の話をしてくれる人が居ますが、気狂い扱いする人の人数からすると居ないといっていい程少ないのです。気付けば、近所で腕時計を着けている人は居ません。子供達に至っては、皆持っても居ません。今はそういう時代なんですね。多分皆の腹時計は原子時計並に正確なのでしょう。私には真似が出来ません。私は時計という機械を本来信用していませんから、沢山のそれに働かせて、そのうち誰かが今っぽい時を告げている、と考えているだけなのですが..。
たまに人が集まる行事等があって、時計を着けている人に何処の時計屋で買ったかと聞くと「ホームセンター」とか「ディスカウント何とか」と言います。何処のなんと言う店に世話になっている、と言った人はここ十年で2人しか居ません。大層時計で話があったことはいわずもがなです。
私の時計趣味も曾ては人に押し付ける程だった経済力はすっかり奪われ、手持ちを失わぬように頑張るので精一杯になっています。趣味ということは総じて変遷があるもので、それがなければ仕事になるでしょう。それなりに時計を並べて楽しむ時期はあっても、やがては逸散させ元の人に戻っていく。それを繰り返すうち蒐集対象は古び、値も落ち、手直しを入れる程のものではなくなっていきます。時計は骨董の一つになりそうですが、機械的機能を失えばただの屑金物ですから、分解され分別され各々の材質向けの原料にしかナリ得ません。
大昔、時計は屋敷程の値段でした。それほどでもない昔でも、ひと財産でした。それが今では普通の人が皆持てて、気張ったところで自動車一台分程度。気張るなら専門ぽいお店で仰々しく買いたいところが、ネット通販や安売り店の「かご」決済でもへっちゃらな風潮もあり、かなりヤバイと思わざるを得ません。

こうして特別なものになりつつある時計は、ちょっとデキる趣味人が商った方がいいものだと見ています。趣味は額面的レベルで高低は付けられません。自ずと各々の好きが違って来ていい筈です。「毎月一個は時計を着替えな!」な感じの人もいいですし、「生涯を共に歩く一個を」派の人が居ても良い。「億万長者さま御用達します」専門の人も当然ありです。どんな業種にも今はそれが言えていると思いますが時計は格別です。昔は万人の為のサービス業。資格迄あった仕事で、それを誇るのもいいでしょうが、資格はあっても経験がまちまちなのは当たり前です。ハッキリと「オレはこれが好きだけどあれは嫌い」と言わないと、稀に声を掛けて来る消費者は戸惑うでしょう。戸惑いは罪な時代です。昔は戸惑うのは客の勝手でしたが、今は情報の不開示として禁められるのです。WEBな時代でもあり、自分の不得意を得意とする人と連携するのは意外に簡単になっています。ところが客である我々にその先を越されているのが時計商ともいえる有様です。
もっと通いたいが、其処が自分向きでなさそう、或いは自分の居場所がなさそうと思えば、客はその店にはもう赴かないでしょう。昔なら、高いも安いもズラッと並べてお好きにドウゾとやれた商売も、今は大体の業種において仕向け先を確定して客が選び易くしてやらねば「気に喰わない店」にされます。

そういうふうに習慣が、変わっていく中で、時計は常にアップアップしている可哀想なお品です。愛されているうちはいいが、ひとたび飽きられれば....。まるで子供の玩具のようです。頑固職もたまにいるのはいいのですが、そこらじゅうがそればっかりでは、価格競争に溺れる「かご」に客は皆はめられてしまいます。時代に合わせて柔軟にたおやかに動いて欲しいなあと願ったりもします。

が、そう思う私などは、軟らかなネットフリマに流れるしかないのかなぁ。という貧乏人です。WEBがないと、今どき貧乏はやってられませんので!。

ま、純粋です。