冒険的な買い物・・・・6/20/97
慎重に慎重に、そして計画的に。 こう育った人が大方殆どだろうと思われる。しかしここ一番何かをやってやろうというときに、少しばかり、場合によっては大層に「やーっ」ときばらなきゃあならんときだってある。それはどんな時のことをいうんだろう。
自分が既に何か得意として取り組んでいる物事があるとする。それを礎にして応用的行動を起こそうとした時、考えることは成功するか否かということだ。それにはこれまでの行動という基準が、即ち経験と云われるものだが、恐らくそれが後押しして「成功」と云う価値観が発生すると考えられる。この場合の不成功は言わばマイナスの価値しかもたないと思う。やるからには成功したい。最初から成功のシュミレーションを持っている人間など皆無に等しいが、成功する為にはと云う概念を齎してくれる経験を、完全というほど持っている人間もこれまた幾人も居ないと思う。
まったく未体験の事に挑戦するときは一体どういう気持ちで望むだろう。大学や何か国家試験なら、誰かがその指標となる経験を持っていて、解析し、参考書か何かを出版している場合があり、それは大いに役立つこともある。しかし最近ちょこちょことその傾向や方策が変わり(国公立大みたいに)当事者を大いに悩ませるケースもある。一期前の「経験」が、部分的な参考にしかならない。それで自信を失ってしまう人も多い。何故その程度の誤算で自信を失うのか。それは多分、目標に向かっての克服点を、その丹の他人のほんとかどうかも分からない経験を克服したつもりになることで得たつもりになっているからに他ならないと考える。しかし、それが仕事だったらどうだろう。会ったこともない人に毎日会い、聞いたこともない話を毎日耳にし、した事もないことだってその日のうちに決着を着けていかなければならない毎日である。そんなこと誰か教えてくれた試しがあるかしら。
誰だって何かをしようと思ったら、誰かに何かを教わりたいと思うだろう。教えるほうの立場になれば、教えてものになる人だったら教えてあげたいと思う筈だ。師弟関係というやつだ。ものになるかならないかはとても初見で分かるものではない。それどころか下手をすれば十年も付き合っている先生にさえ今だにお客さん扱しかしてもらえない弟子だって沢山いるってな。なにもそれが不肖の弟子という者ではない。そう云ってもらえるのは結構真面目にその世界に入り込んではいるものの、なかなか師匠の思う人間に育たない者の特権で、師匠にとっては何時までも可愛い存在である。習いごとには月謝とか所謂謝礼が付き物だが、師匠とて仙人ではないから必ずついて回る当然の代価である。何時まで経ってもそれ目当てのお客さん扱では悲しいってもんだ。じゃあ早い時期に愛弟子になるためにはどうしたもんか。
簡単だ。自分が率先して体験を積み、師匠に膺って貰うんだ。教わってばかりいては何時まで経っても師匠が経験したことに追い付くことは出来ないし、師匠だって唯自分の得たものを垂れ流していたのでは面白くもないしそのうちネタが切れる。師匠とて精進はせねばなるまい。弟子が持ち帰ったことは師匠の経験でもある。それを哲学的に解析してまた新しい形を作れる人間を師匠というもんだ。
世の中にはいろいろなレッスン業がある。音楽、スポーツ、実務、文化、伝統芸術、なにかと花盛りである。何れも入門の基準がある。自分で経験していく能力があるかということだ。自分で音を出す楽器さえ持っていないのにその楽器について学ぶことは出来ない。鉛筆一本持って行かずに絵を教わることは出来ない。何れのお師匠さんもほしい何かに自分より昔から永く接している先輩であることも間違いない。その人を先輩にするか、単なるソフトのデモンストレーターにするか、接し始める自分の態度如何で決まる。
前置きが長いのは悪いことではないと思っている。ここから本題のマリンスポーツだ。最近は幅がやたらと広くなってきていかんから、ボーティングスポーツを扱うことにしようか。これはほんの一部しか他人から習得できることはない。恐らく九割以上を船と水面が教えてくれることになる。つまり、舟を持って維持していける人こそ触れる権利のあるスポーツだ。自分がどの程度のことが出来るのか、人により程度は様々だが、カヌーのように少々努力すれば自分に環境を齎すことが出来るものだってある。使う場所だって様々だ。海かもしれないし、ゆったりした川かも知れない。ざわめく渓流かもしれない。湖という可能性もある。舟はそれ自体は何の役にも立たないもんだ。ただ黙って浮かんでいるのが精々。生かすのは、乗る、又は操る人である。製品としての完成度も大変低い。OSしかインストールされていないコンピューターより一層始末が悪いものである。例えばそれは前にして灯を入れて暫く考えこんでいるうち何をしようと思いついて、「応用」をしていく(アプリケーションソフトを見つける)ようになるだろう。どっさりソフトがバンドルされた電脳せっとにはありえないかもしれないが。やがて「応用」に必要な周辺機器を入手して歩くようになれば、一つのハードルを乗り越えたようなものだ。皆この一段階を踏んだ後にこの文章を読んでいることだろう。御目出度うと言いたい。カヌーでもボートでもヨットでも、「一つ目のハードル」は机上にはない。時間と金をたっぷり(大小はあるが)使ってウォーターフィールドと対峙していかねばならない。そうして経験を積まねばならない。先生となる人が居たとしても、その人が今自分が移動している同じ航路を辿ったことがあることのほうが稀なのだ。これほど特殊なスポーツも滅多にない。そうして安心して移動が可能になった日が「一つ目のハードル」を越えた日であり、それから何かが始まっていく。
全てのメディアはここから先の事しか取り上げることはない。それ以前は皆各々が自分なりに学び培って来るべきものだ。否、メディアは常に第三者だ。第三者にはそんなひた向きな努力など、つぎ込まれている時間や金など面白くも痒くもないものだ。だからだいぶ先のことしか相手にはしない。釣りにしてもツーリングにしても、冒険的な航海にしても、地道な努力の上にある、メディアが紹介する以上に荘厳な成果、戦果である。レースに参加して、リザルドがびりであっても、レースに出るためにつぎ込んだ長い時間と金と努力、そしてそのために犠牲にしたいろいろ。リザルドに名が出るということは、コースを完遂した証拠。途中で投げ出さず頑張り抜いた。大変な努力の結果である。神々しいではないか。ひっそりと楽しまれているカヌーツーリングだって、そこへ漕ぎ出す自信をつけるため、いろんなものがつぎ込まれて来た筈だ。ボートを使うスポーツは、どんなものにせよ、容積分の金がかかるし、ハードウェアもかなり高価で、確かに取りつきにくい感じはあるだろう。しかし度胸一発「や〜っ」と求めたその舟が、どんな可能性を齎してくれるか、年中壊れる、思うようにならないならないと思っているそれに馴染んで自分が大方思うままに動かせるようになった(何年もつぎ込んでやっとの思いで)その日、目の前にきらめくウォーターフィールドが見えているはずだ。
それでもなお、何一つ自由にならない。それが、どんなものであれ舟といわれるものがもつ奥行きだと認識出来ないようなら、潔く舟を降りるべきである。歴史の中でどれほど多くの有能なシーマンがそうしてきたか、私には見当がつく。なぜなら、私の身辺には商船乗りだったり漁船乗りだったりヨットマンだったりボートマンだったりする者がうようよいるからだ。その者全てが自分が舟に乗っていた、或いは持っていた日のことを「たいへん楽しい日々だった」と口を揃えて話すことも事実である。
舟を求めることは、何時の時代も大博打、それだけだって大冒険だ。失敗しても、外見的にも旨くいっても、得るものが喜びであることに変わりはない。ただし、真のオーナーシップに至るまでの道のりは、険しく遠い道のりだ。一目置かれる人達は想像できないぐらい沢山の経験を隠しながら、にこやかに人と語り合う、奥深く不敵な「オーナー」達だ。大冒険を成し遂げた風格を湛え、誰一人逮び着く事は出来ないが、一歩一歩近づいていくことは出来る。そして彼等の心を理解できるときを感じたそのときは、彼等が舟を降りている事に気付くだろう。素晴しい日々の思い出を抱えて。