やはり規制は要るのか  8/16/99

 8月14日、世間では盆休みと称して労使とも休暇を取るのが慣例化している時期の真只中、関東地方を縦断した温帯低気圧(この呼び名も妖し気)が齎した大雨は、何より現在のアウトドア指向の行楽のあり方と行われ方を問うて来たように感じるのは私だけではないだろう。
 神奈川県では15名のキャンプで休日を送っていた人が失われた。埼玉県では、「キャンプ場」にて野営を楽しんでいた人々が、スタッフもろとも道路の流失で封じ込められた。誰にも予測はつかなかったのだろうか。これらは、「雨が強かった」「キャンプサイトが不適切だった」「認識が甘かった」「畏れ知らず」など、当事者の、現場での対応の事ばかり騒がれると思う。しかし、現在は、天候の予測はほぼ完璧につく。私も、11日の時点で、折角誘われた離島クルーズを、帰投予定日の条件が悪そうだからとお断りした。事件の日付は、その予定日だ。同じように「情報」を受け取り判断材料がそろっている都会の人が、それでも出掛けていったことについて少し考えてみようではないか。

 手前勝手ではあるが、行動の計画時点から検証してみる。

 先ず、私が気になるのは、「温帯低気圧」が軽んじられていたのではないかと言う事である。もし、これが「台風」を名乗っていれば、間違いなく事故は起きようがなかったと考える。単なる言葉の威圧感の違いだが、台風=パワフル、温帯低気圧=成れの果てという常識みたいなものがあるのではないだろうか。それは、最近私達に情報を齎してくれる精度の高い気象観測のお陰なのである。いつも台風情報を「ぼ〜っとみていられる」都会人にとって、近付いてくる台風は畏怖を伴う破壊の化身でありイベントの主役である。木々をなぎ倒し船を翻弄し、人間の活動を悉く止める。しかし、特に日本は海に浮かぶ外界と隔てられた島である以上、そのうち無人(無関係)の洋上か、或いは言葉の違う人々の土地に向けて遠離り、それこそ海を渡らないと再びそれとまみえる事は出来なくなる。通常は、其処迄行ってから温帯低気圧になっているのが目立っている。舟や、山を所有し、現実的に台風の力に追い立てられる事のない人々は、年に数回の「外出」を、如何なるイベントにしようかと計画を練る。そこに台風が現れれば、途端にそれは白紙に戻されるのが普通である。全てではないが明らかに人出が減る。しかし、温帯低気圧と名を変えても、それは人が勝手に決めるモノであって、威力はなお保っているものだ。これがもっと国土が広く、或いは地続きの国家を周囲に構え、仮令人智を尽くして構築されたシステムに養護された都会人でも、力を落として尚被害を齎すそれの驚異を感じる事が出来る人々ならば、もっと慎重に、楽しめる状況が得られる日程なのかどうか、大量に齎されるその殆どが納付した税金で賄われている情報を慎重に分析していたのではないだろうか。現に直前に「台風」による被害を経験した西日本地区からは、このような事故事件の報は入っていない。

 さらに重ねて、悪天候が予測されて、それでも「楽しめる」と感じて出掛けたのであろうか。確かに私も大量の、とても普通個人として必要でない程の想像を絶する野外活動用資材を保有している。むしろ備蓄しているといってもいい程である。どんな土地にだってどんな時期にだって出掛けていける技術もある。有りとあらゆる手法を用いて世界中から掻き集めた資材と業をもってしても、只楽しむ為だけに出かける「キャンプ」や「ピクニック」に悪天候を連れていくのは御免である。それこそ年に一二度、楽しみたいのだから、フェアな天候が望ましいしそういう時を望んでいる。かといって時間が自由になる訳でもないし年中休んでいられる身分ではない。折角だから良い日にしたいのである。

 管理された、「つくられた」ようにイメージしがちのキャンプ場にしても、都会のインフラの中に在るものは希有であり、かなり貴重である。どうしても山岳、海浜地域の観光事業の一環として開発(といっても実にマイナーだが)されたものに過ぎないから、自然の猛威は極端な時に限ってその脆弱なインフラを襲撃する。開発されていないそのものの自然の立地なら、インフラのみならずそこそのものが荒れ狂う天候に曝される。そして今、それは予測出来る。戦時中のように天気予報の報道統制をしても、他国の衛星でさえそれを読み取れる時代になっている。人は楽しい時を造り出せるようになっている。その先端の世にあって、幾ら休日が限られ季節は過ぎ去ろうとは云え、勇断を下せる機会を逸していることに疑問を感じてならない。一緒にいて楽しくない人間を選んで共に出かけることが出来るならば、尚更楽しくない時を排除する事が出来よう筈であるから。

 ここ迄近代的になりまくっていて、個人の願望を達成し易くなっている時代になっても尚余りに初歩的とも思えてならない事件事故の報に接し、もうそろそろ欧米並の規制が必要になって来ているのではないかとも思う。

 確かに自然を「感じて」管理の「見えない」空間は、管理社会に身を置く人にとって魅力である。但しそれは自分自身を厳しく管理出来る特別な訓練を受け続け絶えまない精進を要求されて生きている人にのみ許されている一種の特権なのだ。自然の中で働かねばならない人達は、その力から身を守り帰宅する義務を負っている。さらにその中で徹底して完璧に近代的業務を遂行しなければならない職務もある。その厳しい自然から離れて、人の手で造り出されたインフラを常に利用して生活し、働く人が圧倒的多勢を占め、時としてその自然に対する緊張感のなさからその他の人の安全を脅かし社会資本を浪費する可能性が高くなって来ているのが現代である。

 加えて、自然と言うものの回復力を大幅に超えた人数が、各個の物資の力を以てそれを容易に凌駕する畏れさえあることも事実である。アウトドアレジャーが世界的に流行し、資材はどんどん利便性を追求している。しかし、それをみて私は曾ての戦乱の時代を彷佛とされてならない。人々は物量を以て敵対する国家の山の形さえ変えてしまう程蹂躙した。もしかしたら、当時国力を挙げて各々が開発し、最強のものを造り出し世界を手中にした国の技術をそのまま、それも当時は軍備をして初めて達成された驚愕の装備を安価に小遣い程度で我々個人が得て、今自国の残り少ない自然を蹂躙しているのではないだろうか。キャンパーもちょっと通になってくると直ぐキャンプ場を離れたがる傾向がある。また、はなから費用を削減したいが為にキャンプ場等見向きもしない層もある。しかし、自然を守りたいがため、私の友人のもつキャンプ場等は、トイレの排水、風呂の排水はおろか、炊事場の洗い水迄を浄化する全量通過の浄化槽を装備して運営している。多くの近代的装備のキャンプ場は率先してそういう利用者の目に見えない設備をおいている。本当に自然が大切なら、また最終的にそれを利用して、また大きく破壊して作られた道路や鉄道を利用して自然に触れに出かけねばならないなら、触れる現場の自然はもっともっと力をこめて守っていかねばならないのではないかと考えるからである。

 話を戻すと、事件の現場のうち一ケ所は自然の猛威の前にはダムという24時間有人管理される大型の人工の施設があったが、それでさえ大雨の水量を防備することはできなかったのだ。結局現代の人間は、本来ある筈の防衛本能を発揮させて、安全で楽しい時を作り上げる術を取り戻すことが課題であるように思えるのである。キャンプ場でさえ孤立してしまったのだから。

 私がお断りした離島クルーズの参加艇のうち一隻は、天候不良を嫌って予定日の帰投を断念した。やはり、予測は当ってしまったようだ。非常に残念である。こういう予測は外れた方が幸せなのだ。