ナイフを使うと云う事 02/04/1998 T.Nakamura@MWC
最近の新聞記事は、すっかりナイフで武装したチャイルドギャングの記事でいっぱいだ。彼等のお陰で、ナイフ=強盗と云う図式が再び成り立ってしまおうとさえしている。しかし、我々の行うスポーツにとってナイフは無くてはならないもので、包丁などでは代替品にはならない。造り、強度、バランスなど、整備された厨房や作業小屋で使う為に造られた刃物とナイフと呼んで思い付くアウトドアスポーツの為の刃物は、根本が違うものである。中にはケンカ道具として設計された品もある。しかし、多くは大型で、単にケンカ道具として持ち歩くには余りに大袈裟なもので、それが入り用な所は結局普通に刃物がなければ生存の危ういところである。
それならば、ナイフという道具はそう云うところに赴く時だけ携帯すればいいじゃないか、というが、我々は職業軍人ではない。常にそれらを使いこなす為の訓練が必要な際どい技術を必要とする人間が、週末の練習程度でその技術を得られる訳はないと考える。何十年に渡る狩猟経験者でも、ろくに研ぎさえ入れられていない人も多く、どれほど慣熟するのが難しいかが窺える。それをたまの猟場にだけ持ち参じていては、本来の性能が発揮出来ないばかりでなく、同行者を危険な目に遭わせる場合も多々あり得る。大方のヨットに備え付けのナイフは錆だらけで、肝心な時に役立つかどうか疑わしい。是非とも刃物を使う素養だけは養って頂きたいなあ人間なんだから。
私の店では御覧の通りの実用品しか並べていないし、余り町を徘徊しないので、どんな所でどんなナイフが扱われているかは知らなかった。数少ない刃物屋、一部のデパート、それも大方実用品が扱われていただけのような気がする。それも随分前の話である。私自身が報道の「バタフライ」型折り畳みナイフを人の手のサイズと比較して見たのは、ほんの数日前、それも事件報道のテレビ画面内で少年がインタビューされている時彼が手にしているのを見た時だ。実はあの弱々しいヒンジ造りの刃物があれ程大型だとは恥ずかしながら知らなんだ。しかもインタビューアが声を掛けて、ナイフを持っていると告げた少年達が押し並べて同じようなものを持っていた。あ〜ちきしょうあれを売ってれば儲かったな少しは、と思わなくもなかったが、「使えんもの程何かの勢いで流行るもんだなあ」と心底感じたな。大体玩具店で売っている事に驚愕した。私がファイティングナイフとして勧めるのは、大型で、固定されたグリップを持ち。ヒルトの少し向こうに重心のあるもので、全長は15インチは欲しい。バタフライは大昔からあったが、見るからに危険でとても購入する気持ちなんかになれなかった。当然ナイフは玩具ではない。文字どおり玩弄していたら危険なのは本人である。銃器なら装填さえしていなければ、単に目方があるだけだろう。刃物はそれだけで破壊力があるし、一歩使い道を誤ると手傷を負うだけではない、四肢の欠損を伴う大怪我にだって繋がる。まして、刃物を持たない相手にその威力を顕示してもそれは全てが威嚇威圧ではないか。その威嚇がバタフライとはまたちょっと悲しくないか。
相手がはっきりそう出る事が分かってきたら全員で所持すればよい。実際の話幼少の頃から自由に刃物が使えて、日常生活から工作からその用途全てに自分の手で刃物をあてがって来た者は頭脳明晰でもある。刃物を自由に使えない子供が多すぎる懸念は前からあったから、愈々以て教育の一貫として取り入れてしまうのも面白い筈である。刃物は砥がねば用を為さない。研ぐ行いは人類の英知に他ならない。チンパンジーに刃物の使い方を教えれば、野菜やソーセージを切って見せたりする。しかし、研摩する事は出来なかった。研摩は理論である。畜生には理論は通用しない。結局人間として刃物を自由にする為には、研ぎを学ばなければならないが、そう簡単に覚えられるものではないことは、アウトドアマン諸氏ならお分かりだろう。使い捨ての「カッターナイフ」は便利だが、だんだん畜生になっていく自分が見えてこないか〜。
結果としてケンカに使われる事は「有って然り」である。人間が野生の要素を残しているなら尚更。また、それは刃物ナイフに限らず、棍棒だろうが管の切れ端だろうが建設資材のかけらだろうが、時には茶わんや皿迄がケンカ道具になってしまうのは仕方がない。ケンカの仕方が野性的なのは、教育自体に野生を取り除く為の人間的魅力がないからだと私は考える。職業教員には無理な注文かも知れないから、期待は御両親始め身の回りの「おとな」に寄せる事にしているが。
ナイフが子供達の小遣いと比較しても高価で無くなった昨今である。ちょっとした好奇心からでも、欲しいと思うケースもあるだろう。若いんだからそれも向学心だ。その時に親がどうこう云う前に、売り手はどうするのだろうか。少年相手に少しでも「ナイフ論」を語ってやる人が何人いるだろう。少年はナイフが欲しいんだろうが、何の為に欲しいんだろうか。流行の「護身用」か、はたまたユーティリティか、以ての他だが襲撃用か。確かに売れるものなんだから大人しく売れば良いのかも知れないが、ぼーっと売られてユーザーである少年等は困りはしないかな。果たしてテレビでインタビューされたナイフを持つ少年のうち何人がオイルストーンを持っているか。研いでいるか。武器のつもりなら手入れは欠かせない筈だ。使い方が分かっている現代っ子が居ないとは云わないが極小数である事は確か。少し真面目に使い方や選び方を説いてあげると、純真で賢い少年達は、貴重な小遣いでろくに使えもしないバタフライや安ものの『もどき』ファイティングナイフを購入しようとはしなくなる。むしろ日常で有用なものを欲しいと思ってくれる場合が殆どである。況してや、ナイフで人とうちかわそうなんざ同じ白兵戦術でも丸特一級の高級技能。余程の訓練を積んでも大抵の場合返討ちに遭う。相手が丸腰ならば多少の優位に立てる事も有るかも知れないが、実際は何が出てくるかは神様しか知らないんだから、神様じゃあない人間が、なまじ他人に刃を向けるものじゃない。それを真面目に、少々時間を割いても説いてあげることすら出来ない程景気が悪いのかも知れない。
気に入らんとか云う理由で一人を目の敵にしているような教員が存在する事も事実であるし、それを許しているのは子供達の保護者、つまり両親である。また、「切れる切れる」と根気に欠ける、辛抱に欠ける子供を育ててきたのも両親である。親御さんは子供が幼い頃に刃物を使う事を恐れて持たせなかったのではないかな。だからあんな使えもしない造りの刃物や、ホームセンターで1000円で売られているような構造的欠陥があるであろう刃物を、なんの疑いもなく購入するのではないかと考える。親として何をしてきたのか、考え直して良い時代ではないのか。
私は鉛筆削り機を使った事がない。欲しいと思った事さえない。自分で鉛筆を意識した(つまり学校で要る様になった)頃には自然と鉛筆を削っていた。ジャックナイフであろうが、肥後之守だろうが、手近な刃物を使って。散々怪我だってしたが、余り気にした事もないし、された憶えもない。お陰が有ってナイフが日常生活に必要な道具となって今に至っている。勿論手放したり忘れたりした事はほんの一時たりとてない。ないと暮らしが成り立たないし、仕事では時として大きく行き詰まるだろうと思う。
人間は刃物を使って文明を築いてきた。その英知の道具を畜生道の武器として位置付けてしまうか、今後も人間の意味として使い続けるか。特に刃物は人間の生活の中でなくてはならないものだけに、行政管理は困難であるし、いきすぎると「じゃあ俺のソーセージ切ってくれる」と警察を呼ばなければならなくなるぞ。危ないからっていったら、「あんたの子供が一番危ない」かも知れない。危ないのは刃物ではない。人間なんだ。
碌な育ちをしていない人間程行政だの学校だのに頼ろうとするもんだ。社会に迷惑がかかる子を育てているのは親なんだ。親は子の教育をする義務があると云う事は、教育内容を監督し、選び、現場の職業者を管理訴追糾弾する権利権限の一切を所有することである。子の武装化の問題は、根本的には親子の会話の中で解決されるべきである。下手に学校なんかに任せると、「管理」名目の制度の網目をかいくぐる要領の良さと或いはそれに安心し切って居るが為に一部の凶暴な人間の犠牲になることだって考えられる。
我々が子供の頃は、ナイフなんかあったりまえのもちものだった。それを憶えば、情けない時代になったもんだ。
追伸(7/4/2008)先月、分別あるべき大人が繁華街で、自動車やナイフというどこにでもあるようなものを使って無防備な人たちを殺めるという想像し難い事件が起きた。度重なる同じような事件にとどめを刺すようなこの事件の報に接し、一月近くも経ってから十年前の自著を思い出すようでは一寸情けない..。現在は我が社も往時のように積極的にナイフ類を取扱っておらず興味が半減していたのだろう。
この興味、失うということは発展性を欠くということである。社会の責任にする積もりはないけれども、十年前にも同じような興味に応える話題があったことが自著から分かる。十年間、興味を保たなかった為に起きたかもしれない、この事件。
興味は持った時に突き詰めるべきだと痛感した。
その事件で使われた刃物は、ダガーと呼ばれる型の一種の短剣である。しかし、短剣としての武力として判断されその筋が採用するのは、刃渡り30cm程度のものである。昔から一尺といわれる寸法に近いものであるが、太古からの戦いの中で、その長さが「同じ武力を持つ者」と対峙する為に最低必要と考えられ通説化している論であり、経験則である。
事件に使われたような刃渡りの刃物は、何より以て精々威嚇の可能性程度しかない。表裏に刃を研ぎ込んであるため、結果として重量に欠け、刃渡りの割に作業性が悪く、実用に関しては無視されているのだが、あろうことか「実用」されてしまった背景に、意表を突くその行いがある。別にそのような風体に思えない青年が奇声を上げつつ追い迫る、大体それ以前に、何も疑わしくない普通のトラックが封鎖されたと約束されてはいるものの取り敢えず本来道路であるそこに突っ込んで来るという様子を想像出来ない日常が誘発したような事件ではないだろうか。
秋葉原にはもう何年も出向いていない。そこでなければならない用事が総てWEBで足りてしまうようになった為ともいえるが、道路事情が我々を寄せつけないということも作用する。聞くところに由れば、今は秋葉原は電機電設の資器材を暢達する為の中心地としてより、エンターテイメント性のほうが地域の価値になっているらしいが、恐らくその原因のひとつはやはりWEBの利用者がそれだけ増えたからだろう。
事件の首謀者もWEBを利用していたらしい。
ただ、WEBの利用で仕事や生活を組み立てる人は、計画需要者に他ならない。案外WEBは衝動的需給に応じる脚力は持っていないのだ。こういうと何だが、本当に貧乏なら暮らしそのものが衝動性を許容出来ないからそれで間に合う。WEBの所為で電機関係客が減っただけではないだろうが、貧乏で秋葉原へは行けなくなった人というのが結構増えたので、街は住み替えに至ったかも知れない。
その青年は、通販では時間が掛かるといって相当遠く出掛けてまでナイフを買っているようだが、同じようなナイフは別に遠くへ行かなくてもちょっとした都会の大型雑貨店なら売っている。
それをわざわざ、長く列車に揺られて迄遠出しているのだ。
仕事や金で悩んだと報じられているが、それでも、そういう行いを許すくらい、生活自体にはゆとりがあった筈である。しかも、数万円に及ぶ買い物をしているのだ。今時は、一寸聡い人なら、成り立つかどうかは別にしてだが数万あれば「一事業」を立ち上げるものだ。そんな中、それでわざわざ武器を仕込んで迄凶行に至ったのである。こんな事件を起す迄「ひとりきり」で追い詰められている人が、いわゆる「経済的に困窮している」人ではないところが、問題なのだと思う。
ナイフを積極的に商わなくなっている所為で気にもしていなかったのだが、巷ではダガー型ナイフが人気らしい。何でも、ゲームの登場者が使っているとか。ゲームは著述であって現実ではない。まあ昔から小説に影響されて人生を変えた人も多いから、ゲームが悪いという気はない。小説という活字から、実写映画やアニメーション映画へ、そしてゲームへとその対象が移っただけだろう。
どの方角から見ても、レンタカーのトラックやらダガーナイフやらに罪がある訳ではないと思う。トラックを貸して貰えないと困る人も多いし、ダガ−ナイフを眺めることに安堵を覚える人も多いだろう。
ナイフのことをいうなら、近年少なくとも前著よりこちら、キャンプの形態も相当様変わりし、アウトドア事業が結構隅々迄及ぶようになり、ある種の事業性か、格別の冒険性を伴わない限りキャンプトレイル自体商業施設で間に合うようになっている。狩猟やマリン等一部の高度にスポーツ性の高いシーンを除いて、キャンプ用に大型のナイフ自体余り必要とされなくなっているがそれに伴い我が社も売上を損ない矮小化している。現在のナイフの愛好者、蒐集者の多くは鑑賞の為に求めていると思われる。楽器や小道具類でもそうであるように、鑑賞に耐えうるものは実用に供した時の性能もすこぶる高い。ナイフに似たものなら刀剣を例えてよいだろう。よいものは美しく、持ってまるで我が身の如しである。しかし、楽器が身近ではそうであるように、よいものだからといって誰彼なく使って実になるものでもない。ナイフは実用品だ。同じ刃物でも、刀剣は実用品ではあろうが、今現在は用途になる社会が存在しない。しかし製法や佇まいを芸術として取扱って然るべき背景が歴史を伴って存在している。実はナイフといわれているものもそうなのだが、現在の工業力は、もはやこれを芸術として示す程低くはない。歴史的背景も、犯罪以外は殆ど著されて残るものはない。悲しいことに、その程度にしか見て貰えない。
室町時代の刀と、同じ時代の包丁・鋤鍬が同じ道具屋に錆身を晒して並んでいても、見てもらえるのは刀ばかりだろう。ナイフというものは、古民具の鋤鍬と変わらぬ扱いしか受けていない。実用品としてみるなら、ナイフは切ったり削ったりする為の道具である。よい鋼をよく鍛えてつくられたものは刃持ちもよく、バランスもよく使い易い。その程度の扱いしか受けないものなのだから、鑑賞もよいが是非暮らしの中でどんどん使って欲しいと思う。今迄カッターナイフで苦労していた作業が思いのほか捗ったりするものだ。
ダガーナイフをどうしようか。
欧米には多くナイフを使った護身術の指南書がある。講座も広く行われているようだ。合気道や剣道なみに、カルチャースポーツの一つとして愛好されている。ダガーはそれらの中では一つの型と技法を与えられる武具である。ただ、実際立ち合いになって空手や合気道の技を使える人がいるかというと滅多にないことと同じく、ナイフを習って持ち歩いたところで凡そ役立てられることはないと思う。武道において、対峙する各々が何等かの型を示すことが次の手の繋ぎになる。警官は棍棒と銃を与えられているが、銃は日本では「誰も持っていない」最終兵器である約束事においてその効力をなす。米国に於いては、「誰でも持っている」恐れがあるから「誰より先に」それを示す先手必勝の理論を以て訓練される。
ナイフを絶対に人に向けてはいけない。いや、刃物ばかりでなく、棒でも拳でも何でも。
向けた相手が、柳刃包丁で反撃して来たら、逃げ切れなくなるかも知れない。
危ない目にあうのは、先に仕掛けたもの。これは掟である。先般日本人は国ごとコテンパンにやられたばかりだが、まさか忘れた訳ではあるまい。ナイフで事件が起きたから、ナイフを人特に子供達から遠ざけようとするのは逆効果だ。本日の朝日新聞の社説にも述べられていたが、刃物のないところに文明も文化も創作も寄り付く筈がない。それは、多分其処に人は居ないからだろう。人は多かれ少なかれ刃物を使って生きている。ダガーナイフも刃物の派生品で、刃物そのものだ。使う刃物があれば、眺める刃物があってもいい。美しく打ち鍛えられ磨かれた刀剣を求められない人にも、鑑賞する権利はある筈だ。日本人は、深い部分で誇れる刃物文化を持っている。
一時手段でナイフだけ規制してみても、何も変わらないのではなかろうか。
喧嘩ごとは、予めルール付けを行うからこそ成立することを知らない者には、石ころだって武器になってしまうだろう。しかし、本当に貧しければ、明日の我が身の為にそのような行いには至らない。無駄に辛抱してしまうだろう。懸念はむしろ自ら消えていかれることだ。昔なら一揆でも起こるべき世の中だが、皆、ひたすらに辛抱してじっと耐えている。
今、ことを荒立てるのは、傍目には安泰そうな雰囲気の人だ。見かけがそうだから、なかなかそのように心配されないのが難しいところである。現代社会は、いちたすいちはに、のように簡単に物事を理解決着出来ない。人は素手では殆ど何も出来ず、いろいろな道具を使って生きるが、道具の全ては意味を持って現れているものの、どれも使い方を誤ると何等かの手傷を負い、また負わせる。その元は常に人の心にある。
誰にでもある焦りや不安。もとより何も得られそうにない人は、むしろ達観し耐え忍ぶ。しかし、足せそうで足せない人は、悟る材料に恵まれることは少ない。如何なる階層にも、悶々として苦しむ人はいるものだ。
人が皆幸せを感じるひとつのものごとなど存在しないのだ。
では皆それぞれに幸せを感じられるようにするにはどうしたら良いのだろうか。
ほんとうは、もう待った無しでそれを論じる必要があるのではなかろうかと思う。幸福とは、楽しい繁華街で満足する迄買い物することでも、カチ止めで自動車を遮った見せ掛けだけの遊歩道でもない。それを知らず、遥々鬱憤晴らしに凶行を携えてそこに現れたひとりの人間が出来てしまったことが恨まれる。
思えば、十年も経っていたのだから。