広告 05/01/1998  補足 12/31/2008

このところ広告の居場所とか価値とか考えるようになってきた。

こうしてInternetでのタイムリーな情報提供を心掛け、また同じような情報を受け利用する立場としても、今尚継続している雑誌などの定期媒介に於ける広告の持つ期待感を、是迄通りに位置付けて良いものか。経営者としても毎度の締めきりを迎える度に考える。

うちのような小規模事業者はともかく、テレビジョン等で広域に高価な広告を配している大企業にとっては、今、一つの大きな転換期に来ているような気がする。

有料、無広告のメディアが茶の間に侵入し始めている。衛星という電波媒介のものばかりでなく、有線の「放送」を家庭で利用するのも間もなく当然になるだろう。それらメディアは、果たして将来、無料視聴の広告付チャンネルを設けるだろうか。設けたとして、それに因って多細分化された広告の供出先に広告主は附いて行けるか。ボコボコ発刊されては消え行く雑誌はどうだろう。私の社などは既に追隨するのを止めた。広告費が底を尽きたとかいう以前の理由に、効果を曾てほど期待出来なくなった。

読み手としても、それら全てを購読する積もりにはなれない。放送等は、同時に幾つもの端末をならべてチェックする程好きでもない。それなりに多忙故、聴取時間も殆ど取れない。それを圧してドウシテモという番組も少なくなっている。一日に2-30分のニュース番組を利用する程度。それも国営放送の。

Internetが万能だとはまだまだ信じることは出来ない。之を利用するには、少なからぬ学習と努力、さらには端末である電脳が必要だ。これ専用として電脳を導入しない限り、それはそうそう他人の真似のまま使えた代物ではない。状況によっては、費用も馬鹿にならないことがある。商品の売り手は一様にイージーを売り物にしてはいるが、周囲の人間で之を自在に使いこなし、自分の道具としている者は稀少であることも事実。

そのどうなってるか分からないものに社運を賭けるのも具の骨頂とすると、是迄のまま、垂れ流し或いは利用者の購買努力に委ねられた旧来の広告方法を取るしかないのだろうか。実は、それが悩みなのである。

テレビなどでは余りに限られた時間の枠の中で充分な意思を伝達することはとうてい不可能である。本は基本的に読者がいて成り立つお膳立てが出来る。どちらも、見てくれなければ同じことだが。購買意欲、興味も然る亊ながら、この「目に触れる」チャンスに巡り会う亊自体にまた相当レアなものがある。

それなりの技術があれば、欲しい情報に近いものが手にはいるWWWは、今後期待が持てることは確かだ。これは、ユーザとしてであって商人としてではない。ユーザとしてバイヤーとして、私はこの恩恵を猛烈多大に受けている。もし之に出会わなかったら、思い描く形にする迄に之の力を借りる十倍以上の時間と金と執念を傾けなければならないだろう。情報提供者に対し瞬時に忘れる前にこちらの意思を預けることが、世界の何処であろうとも出来る。取り敢えず、今の社会では最も距離を縮めてしまったシステムだろう。先人の努力に感謝する。

つまり発信源がばらばらで管理されていないWWWは、絞り込みにも探索にも、本のように目次でペラペラとはいかないという、発信側としてはこれまたレアな出会いを期待しなければならない一面も持ち合わせている。広告としては効果が薄いどころか全くないと云っても良いかも知れないのだ。一応商品とかサービスを紹介してはいるものの、これは、広告というより提案と云った方がより確かであろう。ある受信者にとっては一方的に、また違う人にとっては身近な返答が期待できるきっかけとして。巡り会いである。既存の媒介を、この巡り会いに結び付けて行ければよいが、今の所既存のメディアの方が圧倒的にメジャーだ。

歴史の狭間に立たされたような、複雑な心境だ。しかし、世界は確実に変わって行こうとしている。


補足

十年経って自著を見てみた。
インターネット格別WWWに関して思うことは、もうこれなしに世は動いていかないのではないかという現況に至っていること。
ありとあらゆる品・サービスは、専らここから索出されるべきとも思える。もしそうすることを徹底的に拒んでいられる人があるとするなら、それは多分に、己の行動半径の狭さと、大勢の人の努力の上に胡座をかいていると決定付けられる。それは、その人は、ウェブを使う人から提供される情報とサプライによってその生活や業態進路を支えられているからである。

印刷出版物は、一層「なにもの用」が際立った枝を多く持つようになったような気がする。こと雑誌に関していうと、まるでウェブに先立つキイワード集かと思えるような内容の、多くの雑多なコラムニストを束ね小口上を記させるやりかたが目立つ。書籍はやはり物語小説系はソコソコ強いだろう。何れにしても、印刷物はホームページと違い、斜読み、裏返し読み等個々の読書テクニックを使い易く、楽しみ方の個性が映える。それでも情報量は価格に比べてウェブの比較にはならず、これからも徐々に苦戦するだろう。

当時はなかった、ホームページの制作をウェブブラウザの中だけで集結させるサービスや、ブログといわれる日記形式の積み上げ掲載にコメントを読者から貰う機能を加えたものが大衆に認められるようになっている。但しこれは取扱に根気が要ることと、階層的な奥深さを与えるのが実に面倒な為、発信者の執念を孰れ挫く仕掛であることと、日記帳のようなプライベート性を帯びた著述が憚れることから、提示されることは極限定され、著者の能力はどうあれ結果拙いものとなっているようだ。

ここで、広告に就いて改めて考えてみた。
集客性の期待は、既に新聞を含めた印刷物より、ウェブサイトに重きを置かれるようになって久しいようだ。印刷物への広告掲載は専らそれへの導入でしか無くなって来ているので、賑やかなレイアウトが少なくなって、見た目のインパクトと、それを誘うイメージデザインが要のようである。そのためか、全く無意味とも思えるカテゴリーの出版物にも広告が載っているのをしばしば目にする。果たしてどれだけ効果があるものだろうかと、他人事だが心配になる。
インターネットの方も、主なポータルウェブサイトはもうそのブラウジングエリアが満杯で、広告の掲載タイミングは秒割りで取合い状態だろう。検索サイトのキイワード広告に至っては、既に邪魔呼ばわりされている。そこで、逆にホームページで情報発進する小商店や個人が、掲載したい広告を選んで掲載し、そこから掲載広告主のサイトに飛んで利用すると幾らか貰えるアフェリエイトという方法も浸透している。
ここは一歩進んで、大手メーカーやサービス提供元は、極小さな商売をしているウェブサイトや、個人のウェブサイトに対して、広告掲載を依頼して年割り月割りで幾らかドネートすることを考えた方がいいかも知れない。不確実なアフェリエイト掲載に頼るより、商談次第で確実に掲載されるだろうし、額も僅少で済むだろう。広告を載せるサイトオーナーは、あべこべに面倒はないし幾らかの「運営補助」が確実に得られるとなれば喜ばしいことに違いない。
そうするには、大手のマメな情報蒐集と、根気強い説得商談は欠かせなくなるが、それらはウェブ世代には必須のコミュニケーションである。ウェブ世代のユーザーバイヤーはそもそもアクションとフィードバックはウェブベースであるため即動的で強力である。いつまでもポータルのあちら側辺りに居座って遠見を決め込んでいると、敵ばかりこしらえかねない昨今、広告を載せてもらうことで細かくシンパを拡げて、理解ある利用を拡大させる手法になりうると思う。

としても、ネットオークションで強いビットを得られる商品やサービスでなければ銘柄の存続は危ういと思える状況を察して既に数年が経過する。それがこれほど迄に影響力を持つとは、当時は考えようがなかった。
ウェブは広告を確かに変えた。広告する側ももっと変化を読み、加速しなければならないだろう。