遂にうちもスーパーカブ

とうとう、弊社も営業車にスーパーカブを導入した。何を大層なことを...と思うなかれ、弊社は二十五年来「ベスパ」というブランドを重視しており、販売品としても諸サービスも取扱い、つまり余りにこれに傾き過ぎているため、所謂盲目状態で営業車にもそれを取り入れていた。

スーパーカブは、かの本田宗一郎氏の機転で開発された汎用車である。その発売日1958年8月1日は、日本のオートバイ産業が一気に思考を転換せねばならない「事件」として業界に轟く。当時は未だエンジンの付いた乗物はまだ高価な存在で、特に日本には細かく分かれた二輪自動車免許があったこともあり、自転車のフレームに後付けでエンジンとミッションを備える所謂本物の「原動機付自転車」、その第一種免許で運転出来る範囲の排気量を持つエンジンによって動きながら、始動の為に必要なペダル推進構造を残す「モペッド」、それこそベスパもどきの「スクーター」、そして胴体真ん中に居座ったエンジンから多変速段数を持つ変速機で推進力を伝達する「普通のオートバイ」と、この業界の商品は余りに多岐に渡り過ぎて収拾が付かない状態だった。挙句それらを纏めて「自転車店」という、その車種項目数の相乗倍にもなろう街のあらゆる要求を吸収し得るとは思えない業態に取扱わせる手もつけられない有様を、スーパーカブのスタイリングと機能・性能が、ある意味で集約し、選ぶ余地なくとも取り敢えずこれを用いれば成功間違い無しというレベルに押し上げた。時なお二輪車といえど実業的性能を求められた時代、大多数のオートバイにも大きな積載装置を要求されており、手頃になったとはいえ求めうる人は限られ、しかもそれに向けては余りにも百花繚乱のメーカー濫立状態だったこの業界の集約を一気に進めた歴史の転換点となった一日だったのだ。この日から僅か5年の間に、日本の主要なオートバイメーカーは僅か4社に迄纏められていくのである。同時にスーパーカブは、それまで主導的立場に居たイタリアやドイツのメーカーを悉く圧倒して世界の辺境から活躍の舞台を押広め、今や全世界でその姿を見ることになっている。

スーパーカブは自動車の歴史の金字塔である。世界に六千万台以上供給され、最初期型さえ実働するのは珍しくない。同年代のオートバイは幾ら大切にされていても実働とは程遠い稼働状況なのは当然だ。低い次元で観察するなら、確実に、これがあったかなかったかでは世界の状況が違っていた可能性さえ、あるのだ。

なんでそういうスゴいものを営業車に採用しなかったか。

かくいう私もスーパーカブ育ち、16才で二輪車デビューしてから6年以上メインの交通機関として使用、近郊のみならず日本中をこれで移動した。フェリーや連絡船、挙句飛行機に積んで島嶼へも出掛けた。
ほぼ同時にベスパを併用、これでもまたそこら中に出掛けていった。
その所為で鉄道という交通機関にはカラッキシ疎く、駅で迷子になるのは普通である。
二つとも世界を席巻したブランドであるこれら、経験上存分に「比較材料」を持っているにも関わらず、ベスパとしてきたのは何故か。
スーパーカブは、劣悪な環境でも重労働でも、ただ燃料を注ぐだけ、それも非常に少食のくせに、ほいきた、とばかりに使命を全うする。ところがベスパときたら、大飯を喰う、随所で故障、燃料の質にもウルサイし潤滑油も選ぶ始末。そこら中で修理を要求、常に調整を必要とした。
どうやら、乗り手であったこの本人の器用が災いしたようだ。
私にとって、ほいきたが当たり前であってはならなかったのである。
生来はじめて自分の手で操った乗物が船であった人間にとって、ほいきたの向こうにあるものは艱難辛苦でなければならなかったのである。常に天候を読み、行動半径を移動に合わせ把握し、とっさの事態全てに備える技を磨いていなければならない水上の世界で、ホイキタと請負うことはある意味で寿命の終りを意味する。途中に必ずある修理や整備の時間は、労苦ではあろうが休息でもあった。
私は、それを陸上にも持込んでいたのである。そして、それは自分にとって当たり前のことだった。

スーパーカブが来たということは、少し、市民的意識が芽生えて来たのかも知れない。

遅すぎる・・・・・・・・・・。