十年目の報告:ロッコツマニアのスワンの旅 5/6/2008

弊社は、1998年7月18日から始まった、NTVの「電波少年」という番組の中に織込まれた、ロッコツマニアという若い2人組のタレントさんが、池のスワンボートのようなものを漕いで日本沿岸を旅するという企画収録のサポートを同年12月24日迄担った経緯がある。
この旅は、外部には全く知られていない大冒険旅行で、タレントさんは勿論、現場を担った映像、サポート、整備技術の誰もが人生観を変えられる程の体験を強制されたのだ。

長く秘録としていたが、生憎忘れそうなので、ここで要約して報告していく。

〜スタート〜

この企画は、前年97年秋頃にはクランクインしていた。スワンボートというアイデアは局側から出たようだが、実際それが湛航しうるか等の調査から始まるのだが、それは即日当然乍ら、乗員はおろかサポート隊迄危険に晒される程であることが判明し、数名のボートデザインの専門家の中から高井理氏が選ばれ、海を人力で長期間航行し得て、かつ丈夫なものを設計されるに至り、製作はツボイヨットによって98年3月完了、その後東京羽田近郊の海面で綿密な調整と改造の工程を3ヶ月近くに及んで実施されることとなる。
弊社はこの時点では無関係であって、面白がってNTVから発注を得ていた「元請け」の話を聞いていただけである。

しかし、98年7月15日、とんでもないことが発覚した。
愛媛県沖に浮く二神島というところから、瀬戸内海・紀伊水道・熊野遠州と大灘を幾つも越し、挙句は駿河湾を横断で乗り越え相模湾を廻航、東京迄の航程距離800海里を同行させんとする「随伴艇」は今だ東京に居た、のである。当日は風速25mからの風が吹く天候にも拘らず、2日で東京から愛媛に「39ftのオンボロモータークルーザー」で達しようというのである。うちは当該艇をよく知っており、2日はおろか5時間の全速航行で多分御陀仏という代物である。それを「愛媛迄廻していってくれ」というので呆れ、倒れそうになった記憶は明るい。大体、7mの「スワン」冒険者艇のサポートには余りに大きすぎる風体であるし、インボード艇は丈夫そうでサービス面で自由は効かない。船外機艇は間違いなくエンジンユニットが持たない。私らも命が危ない。そこで我々は、咄嗟に知己業者(エイビイシイマリンさん)の協力を得て「ウィンディ(Windy30)」とその後呼ぶインアウトジーゼル艇を俊足暢達、即日愛媛に発送した。

タレントさんは、既に長く無人島でのサバイバル実験をしているという。7月17日、愛媛のマリーナでウィンディを降ろした我々一行は、先行している撮影メンバーに合流すべく二神を目指し出航、30分程で到着するも、タレントさんたちはまだ食事中だという。暫く振りにシャバのメシを喰っているのでという撮影隊から事情を聞いて、ほんとうに無人島に置かれていたことを確認した。可哀想なタレントさん達。暫しして、二神の港の前の宿屋から連れ出されて来た2人組は、「スワン」ボートと対面することになる。

写真は、スワンボートとウィンディ(サポート艇)、そしてタレントさんお二人。

出航の「撮影」を経て、船出した我々一行は元々かなり気楽であった。始めの話では、スワンは「曳航」してしまって、目的の島や港に近付いたら漕ぎ入れて、あたかも人力で来たかのように撮影を始め、そこここで起きるエピソードを素材化すれば良い、あとは遊んでばかりでラクチンラクチン、という予定だった。出航1時間を経過、見送りの島の衆の船も戻ったところを見計らい、リグして用意していた曳航索を繋ぎ、ウィンディが前進を掛けた瞬間、早速、曳航するとスワンのあちこちが数分も持たないことが判明した。特にスワンの推進装置は今にも解体しそうであった。
あたりまえである。
スワンは元から人力で運用する計画で設計されている。大柄に見えるものの重量は200kgを切っている。推進装置も最軽量の材料を削りに削って使われている。人力艇の条件を満たすべく、最高の設計者と最高の製作者によってギリギリまで研ぎ澄まされ、完成迄1千万円を注ぎ込まれた、NTVと造船陣の情熱の賜物なのである。それを引き摺り廻して時間を稼ごうとは、余りに安直である。
こうして企画倒れとなった「曳航」策は、弊社担当(以後私)を除く全員を失意のどん底に陥れた。私を除く、と云ったが、こちらの目にはどう見てもそれは不可能と当初から見えており、元々密着サポートを準備していたから予定通りだったのだ。
予定していた隣の島に付いた時刻は、予定より7時間以上遅れ、全員初日から疲労困憊することになる。その後この旅は年末迄ぶっ通しで続くことになるが、応分な手当とシフトと「常識」のあるTV事業者側は別として、外注の実働部隊の中では、図太い奴は別として、繊細で思慮深い人から順番に疑問を意識せざるを得なくなり、それが業務に影響を来たし、脱退したり解雇せねばならなくなった。勿論映像の主役であるタレントがこのことを疑問視するのは、お笑い芸とはいえアーチストなのだから誰よりも早く、3日目にはこの価値を問うようになり、次第に鬱的様相も示し始め、我々は勇気づけ鼓舞する役割も担う始末であった。

〜航程〜

予想だにしなかった「本物の」冒険旅行は、その後想像を遥かに凌ぐ過酷なものとなった。
人力の船は大いに天候の影響を受ける。当然、随所で必要以上の足留めを余儀なくされる。それは時として半月に及ぶもので、映像制作側を大いに焦らせ、随伴は勿論主役たちも気持の整理の為にその心配は頂点を凌いだ。
同時に経費は爆発的に増大した。ぎりぎりの設計を必要としたワンメイクの人力艇は、ほぼ毎日重整備を必要とした。随伴艇は、恐らくこれまでの生涯の数倍の整備を要求した。スタッフは常時10名近くを抱える必要が起き、人件費やその行動費も全く想定外で、金が決定的に欠乏した。
しかしNTVはこの企画を投げ出さず実行し続けた。当時かなり入れ込んでいた番組の中心的なパーツだったこれは、最後迄実行された。私はそのことには痛く感銘を覚えた。元来、所謂バラエティの出し物だからいつでも何等かの言い訳を放送して罷めてしまえることである。それをこんな状態に至っても続けようという意欲に、持てる全てを注いで応えた。
スタッフは、行く先全てが初めての土地で、不便が時間の不足に繋がり多忙を極めた。スワンは最高でも6ノット程度しか出せない為、そもそも予期せぬ航行時間で陸上作業の時間も日程も全く無くなってしまったからたまらない。地元の人なら容易い買い物でさえ時刻的にも侭ならず、便箋一冊鉛筆一本にもこと欠いた。大人数の為、全員が泊まれる宿を探すのも大変だった。その為、当初は陸走隊をおく予定はなかったが、数カ所寄港した後はスタッフを増員して陸走の一団を設け、次に到達し得そうな場所の下見と宿屋探し、東京と現地との物資交換の任務に就かせた。

ここで特に記したいのは、これらは全て私には分かっていたということだ。
大体私は元請け側の許容する金額で即日随伴艇を用意した程である。これも向こう半年に渡る長期間、しかも絶対ボロボロになってしまう用途への貸付要請であるから、幾らつきあいがあるといっても昨日今日の仲では認められようもないことだし、もし自分の船(はあったが)だったら絶対貸さなかったであろう(実際貸さなかった)ところを請けてもらったのである。勿論借りた船を元以上好調にして戻す自信はあったし、事後それを責任を持って売却した程で、これについては全て予定通り事を運んだ。
そんな人間が、この程度のことを、瞬時に想定出来ない筈はない。

〜大冒険〜

98年9月8日、遠州灘廻航を達成して後はや一週間、荒天回復を待っていた一行に、早朝希望が見えた。毎朝灯台の下から海と空を睨んでいた私に、沖の波の崩れが大分穩やかに見えたのだ。この気を逃すと後は連発する台風の余波を途切れなく受け付ける一ヶ月が待っている。即刻、片時も手放さなかった自分の荷物を全部ヒッ抱えて突っ走り、一行に即出航を命じた。港の一行は、入港以来縛られている岸壁で、晩夏の朝の日射しを楽しみながら、近隣の人々と談笑している。人々はもう居慣れた一行に、その場で汁を煮て振る舞ってくれたりしていたそこに私が血相を変えて傾れ込んだものだから偉く慌てた。なにしろこの航程は、駿河湾を横断し、南伊豆妻良を捕まえるという行程最大の冒険レグで、皆「ダラダラすることで」ストレスを紛らす時間を過ごしていたのだった。私は前年シーカヤックで友人とここを渡り、12時間漕ぎっぱなしで命の危険も感じた航程だけにこの一週間の緊張ときたら周囲を戦かせるに充分、期を逸するとそれこそ全てが水の泡なので大平洋横断など何のそののレベル迄張りつめていた。
一行に旅支度等している暇はもうなくなり、荷物は全て陸走隊に任せ、身一つで、準備万端に保っていたウィンディとスワンに飛び移り出航。朝7時であった。
航程距離は40海里に及ぶ。スワンは巡航精々4ノット。ウィンディは本来30ノットで巡行する設計だから、確実に寿命を縮める微速航行で随伴せざるを得ない。進路は潮流の関係で一日二度は「漕げども進まぬ」2時間を否応なく過ごす為、巡航速度を保てたとしても14時間、疲労で足が遅れれば16時間は見なければならない。
生憎懸念は現実となった。出航当初多少時化模様が残っていた海は2時間程度ですっかり穩やかになったが、その間にスワンが随分無理をしたようで、推進機にトラブルが発生した。多発していたギヤアライメントの不整が起きたのだ。今迄水上でこれを直したことはなく、一行からは帰投を望む声もあったが、番組は素材を急いでいた為、私はスワンに乗り移ってギヤトレインを分解、何とか修正するが1時間近く漂流。西の山々を3点法で位置を取ると2海里程北へ流された。これは不味い。湾に入り込むと潮流によっては吸込まれるので、一層対地速度を損なう。前年のカヌー行ではそれを嫌って相当南へ膨らむ針路を選んだのだったが今回は漕ぎ手の疲労を鑑みてラムラインを布いていたのが早速裏目に出てしまい、巡航速度は3割も失われた。但しその後はトラブルはない。でも時間はどんどん過ぎる。遂に、未体験の夜間航行を敢行する。妻良は遠望出来る目標がない為波勝崎灯台を探すがまだ光逹距離外だった。暗がりで怖がるスワン乗員に、ライト使用を認め、ウィンディの船尾灯を目指して少し離れてついて来るよう指示するも、疲労で段々速力が落ちる。ウィンディもクラッチトラブルが現れ始める頃既に16時間経過しており、波風も強まり始め、万事窮すとなって漸く波勝灯台を目視した。オオヤマを張り捲って針路を90度にとること3時間、もうこれは運良くというしかない、妻良入港となった。山々の上の空は既に白み始めていた。一行はウィンディのデッキや岸壁に横たわるや否や泥のように眠ったが、幾らも時間が経たないうちに人が現れ、早く他の港へ行くようにと告げて去った。もう両船上に食料も水もない。せめて水をと道路に出て、港向いの家に水をくれるよう頼んだら、なんと「あっちの家で貰え」と、かなり離れた民家を指された。どうやら、我々を招いたかのように見られるのが困るらしい。仕方なく持てるだけの水を手に入れてそそくさと、ボロボロに疲れた身体に鞭を入れて出航。しかしこれは見方を変えると天の助け、駿河灘横断の恐怖と苦労が未だ身に新しく、陸沿いに行ける安堵と、数時間保った凪のお陰で8時間で難なく石廊崎を廻航し、手石の港に入ることが出来た。手石には知人が宿を開いており、その人の手配で泊地を得、疲れた身体を休める場も得られたが、そうしてほっと夕暮れを過ごしているうちに見る見る風が強まり、そのまま又の長逗留と相成ったのだが、全員、起き出して来たのは翌日の深夜。宿では、死ぬのではないかと気を揉んだらしい。
こうして、殆ど休めず32時間航行した、駿河灘横断は終った。
荷物を任された陸走隊は、船舶電話に何度も連絡をして右往左往する。電話に出る随伴艇の乗組員が毎回違い、弱音を吐くから、戻るかも知れないと静岡辺りで行きつ戻りつなのだった。結局私が意地でも妻良と言った後に決して直行、港で10時間も待って、挙句追い出され、手石の宿屋で8時間も待った。これはこれで、大層な御苦労だった。
爆睡後の私は、ウィンディの疲れ切ってスリップするクラッチの修理の為、船を陸揚げしドライブユニットを外し、うちへ戻ってOVH。クラッチは減ってツルツル。それを持ち戻って取り付け、テストをしたり調整をしたりで忙しく凪を待つことになった。

〜驚愕〜


伊良湖水道をいくスワン


石廊崎を廻航するスワン
関西圏から中部圏での行動中は、そこここの地元でもとりたてて話題になった訳ではなかった。見知っているという人が居ても、へえコレで...という程度の反応だったが、親切にしてくれる人が殆どだった。関東圏に入っても、思いのほか静かで、たまに写真を撮りたがる人がいる程度であったが、東京から改めて出発、千葉を経由して茨城に入った辺りから様子が一変した。毎所で毎日のように数千数万の見物が押し掛けるようになってしまったのである。航程は全て保安当局の許可を受けて航海していたのであるが、止めどもなく押し寄せる野次馬の集団は、寄港した漁村の容量を遥かに凌ぐものだったため、随所が寄港を断る程の大迷惑を巻き起こしてしまったのである。
そのため、何とか人の記憶から遠ざけようと、一時一行は半月間隠れた。スワンは姿を隠し切れない為、陸送して遠ざけた。この間に、寒い季節に向けてウィンディとスワンのOVHを済ませ、後の航程に備えられた為、特に時間は無駄ではなかったのだが、人の行動力とは恐ろしいもので、事後再出発の後、静かだったのは2日だけであった。その後は警察や地元役場等から毎時苦情を受ける程激しい野次馬攻勢に遭い続け、一時は身の危険も感じる程だった。
一体何処からそういうエネルギーや、横の連帯が生まれるのか全く不思議であった。「土地柄」だという訝った説も現れた程である。しかし、今にして思えば、そのあたりから携帯電話が急激に普及して、その利用者間の連絡が容易くなっていたのである。サービスが行き届いている地域では、今見たものをリアルタイムに大勢に伝えられたのである。私自身は86年から自動車電話を使用しているので、案外そのことに気付かなかった。今なら「シャメール」で様子迄伝えられるから、思う程「現実」への憧憬は生まないだろうが、あの頃は未だ通話ができる程度でありながらも「今」が今直ぐ伝えられてしまうから、知らされたそれを見たいという熱情を育てていたのかも知れない。

〜インターネットとモバイル〜

当時弊社は既にホームページを持ち、販売宣伝は主にWEBを頼る程大きくシフトしていた。それでも電話によるコミュニケーションは主流を占めていたが、PCを携帯電話に繋いだり宿泊先の電話に繋いだりしてインターネットとFAXを駆使することで不在をまるで在社しているかのように凌いだ。そういう長期の不在状態だから、当時は普通は留守番社員の繋ぎ連絡に依存するのが普通だったが、私の場合はFAXや連絡メモをスプールしたPCに外から入って必要な書類を集め閲覧、返事を遅れることなくメールやFAXでバラ撒くことに至便を感じた。これは私の周囲のPC熱、ネット熱に一気に火をつけることとなった。この半年の間に、携帯電話で連絡が取れない人は居なくなり、大半とメールで通信出来るようになった。
ものごとには案外何かの切っ掛けが必要なのだが、それが身近でない限り、検討課題にも成り得ない。

〜経済力と企画力〜

ものごとに臨む時には分を弁えよというのは古来云われることである。
知己や興味だけから面白がって請負うような「開発的」業務は、それがどう転がろうとも踏み外させぬだけの財力の後ろ楯があってこそ実行すべきだし、個人規模なら趣味と割り切るべきことである。
この企画、元通りの予算が当初既に通らなくなった後、現場製作スタッフは経済面で大変苦労した。当初といってもかなり長期間、本部側の予算融通が得られるようになる迄、現場の人個人の懷で企画は実行されていった。気持の足は幾らでも加速出来るが、金の足は到底それには付いて来ないのである。
弊社も当然立場を同じくせぬ訳に行かぬところに連れ出されているので、突然数百万円に及ぶ自己資金を融通せねばならなくなったが、それが埋め合わせられる迄にその後数年を要した。本部はそれなりに頑張って資金を集めるものの、結局それは実行に足る額ではなかったのである。
この航程の企画は、大方元請けに依存する部分が多かったようである。その後この企画は海外へとその実行の場を転じるが、元請けはその遂行に大層苦労した。生むより案じる方が容易いのが仕事である。仕事は必ず利益が上がらねば成らないし、勿論必要とされる額を達するべく予算を提示出来ねば成らない。金が後から詰ってしまうような仕事は元からやらない方が結果としてお互いに良い仕事になるのだ。
我々の業界は、専ら業界自体の憧れや夢だけが先立ち、良い仕事と思える仕上がりはことのほか少なかったように感じる。そのため、事業者は勿論利用者も、支払に見合った結果を得ていない。仕方なく続けるか、または諦めてしまった者が大半を占めている状況である。出発点である企画が甘いため、経済力に見合わないサービスばかり提供するハメになったからだろうと察する。
当初如何にその必要を提示出来るかのカギを持っていない企画が、後から次々と迷惑を生み、そこらにばらまくことになる。

〜当事者の意識〜

この企画の主役のタレントさんたちは、その後特に取り沙汰されることなく、十年を待たずしてコンビ活動を解消し、うち一人は廃業したようである。業務を企画し、請けた元も既にマリン業界を去って久しい。
これだけ長期間篭絡され、その後足が出て埋め合わせに時間を掛けるような企画を全うしても、決してその恩恵に長く与ることはないのがこういう仕事の世界なのである。
テレビや映像の仕事は、極一部はその歴史に長く備わる資産となるが、凡そ殆どは一瞬放映された後は顧みられることもない、極めて作品性の高い商品に携わることになるものである。その見かけは派手だが、これまた高度な分業を余儀なくされ、関わったひとりひとりに充分な額の手当がされるものでもない。
そこで煩わしいのは夢や憧れである。時代を進めるのはそれらであっても、叶った後に応分の手当を、自らは勿論手伝う人々に施せないようならむしろ詐欺である。映像の世界は日々刻々と迫る必要の為に多くの素材を求めているが、実は一分の放映の為に必要とする巨大な無駄な作業を理解してい乍ら存分に許容出来るものでもない。その上、素材の中身に要求される深い知識はないから外部にその知識や経験を依存するものなのだ。生半可な経験や知識で中途半端な企画を提示し、もしそれが捉まえられ需要とされた瞬間、必要な日程に合わせた納入義務から逃れられなくなる。顧客は厳密な時間割に翻弄されていることを理解するなら、脅しとも受取られかねないような厳しいものでも示してやらねば後から後から人に余計な面倒を残す始末と成りかねない。
それでなくても、何ヶ月、或いは何年と云う単位で拘束される可能性もある仕事である。この企画がまさしくそれで、事が起きてから終る迄1年以上を費やした。タレントさんはその間その他の、本来自分がすべき仕事から遠離らずを得なかった訳だが、我々だってそれは同じである。この世の中、3ヶ月習った程度のことで身を立てている人も多く居る。1年掛ければ本来なら大層な専門家になってもおかしくないが、それを何ごともなく通常の業務かのように勤めることを要求されるだけなのである。そういうことは、元々専門の者が専門の時間の流れの中に織込む仕事であるが、畑によってはそういう人は居ない場合だってある。この企画はまさにその典型だった訳だが、そういう場合は当然のように、充分な手当か或いはその後の営業の発展が求められようものである。しかしこれがそうだったように、その両方とも得る術なくただ時間だけを費やす結果となる例がこれまた大半である。ここで使ったスワンボートは、直後に顧みられることなく分解され野積みにされた。結局その程度の価値しかないのである。私はそれを予見したのはいうまでもないが、真ん中で大勢に頼み采配せねばならない企画主ともいえる立場の者が終始夢に浮かれてはしゃいでいるようでは事業とは言えない。スワンを展示して宣伝しようとかいっても、元々それを善しとする番組の企図はないし、著作権の問題も大いに絡んで実現出来よう筈もないのは最初から、その世界を知っていれば殊更明白なのだ。行動半径が拡がる序でに拡販や宣伝をしたところで、ボーティングは元々ローカル性が強く、そこここで独自の活動形態があるから割り込みようがなくて当然である。実際の収益に酔うならまだしも、根や葉はおろか実態も得ぬ有名欲程度のものに浮かれているようではこういう仕事を担う資格はない。元来有名と云うものは必然に齎されるもので努力程度で実になりはしない。
結果として、若いが故に研鑽に注ぐに必要な時間を浪費したタレントと、浮かれたり憂いたりして足元を失った協力者を乱発しただけで、今となってはその誰もが、誰にも記憶されることなく、そういうこともあったという「人も居る」だけになった。これは、誰がその発案をしようと、形にして提供する段階で深い思慮を欠いた企画者の責任である。