現代的な商取引とは・・・・・・4/16/2009

曾ては、人々は身近な商人を生活や業務上必要な品々の入手窓口として当て込み、信頼するというよりむしろ、どうにもその他に方法が見つからない為利用することで自然にそれらが周辺環境に適応していった。大抵の場合同じ商材を扱う者は重複するが、各々に得意を以て補いあって、結局互いに助け合う社会が出来ていた。
ところが、今は、こと需給満足のことだけ先鋭的に要求されるようになり、皆で同じようなものごとを、同じように提供されるべきと考えられるようだ。
ところがその反面、需要側は全くそれとは反対の、その品その行いひとつしか持たないような者からの供給も気軽に受けるようになっている。インターネットの中で行われるオークションに代表される、一点一元で回帰のない購買である。

昔の流通社会は、経路が広大になりがちで、途中に大きなバッファになるべき存在も必要で、確かに無駄は多くなりがちだった。それをカバーする為に必要な経費も、流通の中から拠出されねばならないから、安売り等とは無縁である。また、一度消費されたものが再び現れることはある種の驚異で、それらを中古品と称して自ら流通を妨げたものである。
今は、用事が足りさえすれば「中古品」でも構わないという人がとても多くなり、その流通を妨げようがなくなっている。

中古品の流通は、先のネットオークションの他にも、古来の古物回収が元になることや、露天市を開いたり、古物商への持込もあるが、後者はこと最近は非常に盛んである。それこそ昔なら、「質屋通い」のように少し恥じられたような行いだったそれは、自ら露天市に立って無駄な時間を費やすより手早く、古物回収の殆どごみのような扱いより人格があるので好まれるのだろう。勿論、ネットオークションに載せて売れないより早く片付くとか、そもそもネットに飽きたということも考えられる。

そこに、商業者は注意が必要だ。今迄流通は商業者の特権のようなものだったが、今ではその回りに、消費者によって広大で強固な古物の垣根が張り巡らされていることを知らねばならない。

既に商業界は何十年を費やして大量の物資を消費者に供給してしまっているが、相手はそれこそ昔のように、狭い住宅に肩寄せあって暮らすことはもう稀だから、往時にしてみれば商店の倉庫並の「空きスペース」に、商人が売り抜いた大量の物資を眠らせている訳だ。客だった彼らの戸口の奥には、常に膨大な品々があるが、もうその行き先はゴミ箱ではない。趣きある消費者ならそれらを「ネット空間」に展示するから、求める人は欲しい品を検索し、それこそ飲み食いし乍ら居心地良い我が家で己の要求を満たす品を安く迅速に入手しようと画策する。
古道具屋だって近年は侮れない。薄暗い、ゴミ溜のような店構えはもう有り得ない。あったとしても、同業者の「問屋」の機能に特化しているだけだ。明るく整とんされ、綺麗に掃除されたフロアの上に、気になる品を広げてゆっくりと品定めをさせる大規模な古物商店が随所に現れている。少し型は古いが存分に機能する品々や、買ったまま装備として保管され、開封もされていない旧式品が大量に「実需」に向けて展示されている。デパート然とした清潔な店内に、知識のある店員が居り、限り無く無料に近いものから誰もが羨む高級品迄、居所を違えさせられることなくずらっと並んでいるのである。その様は、まるで大陸のヴァリューヴィレッジそのまま、或いはそれ以上の「品質」を呈して、しっかり新品の需要を妨げている。

そうした中で、商業者は、元売り小売を問わず、それらを凌ぐクオリティがなければならない。
ネット空間は相手が誰か分からないから、相手の都合で、思い通りの品には巡り会わない等当たり前で、購買者は先刻承知でそこを利用する。古道具屋が幾ら綺麗になったからといって、偶々売り物が新品だからといって、普通の商店のような事後対応を提供するものではない。勿論そんなことをしていたら古道具屋は成り立たない。客は時として、店っぽいが一寸違うそれに困惑する。
こんな中で、新しく作られたものを売る商店は、こうも簡単に安く用事が足せるようになった需要に対して、一体何を施せば認められるか、いや、認められることをせねばならない時代になっている。勿論、新しいものを作って来た製造者にはいわずもがなである。

大きなサプライヤーの前で疲弊して、多くの店が畳んでいく。
八百屋や魚屋、肉屋はスーパーチェーンに、雑貨屋はホームセンターに、怖じ気付いて小さくなり、やがて消え去る。でも、これはそういう時代だからではない。押し並べて、消える理由は自信喪失だ。昔なら、それこそいろいろ、所狭しと並べておけば皆が立ち寄ってそれらの中から勝手に欲しいものを選んでくれたろうが、そのやりかたは、後から現れた大資本の手本になっただけで、こちらは大元手を掛けてだだっぴろくそれをやるものだから、昔なら珍しかった自動車が「全員の小道具」になった今、少々遠くても出掛けられてしまうだけである。
こう書く私自身、そうして消え行く小店の閉店セールを嗅ぎ付けては美味しい思いをさせて貰った。幾つか必ず言葉を交わすのだが、皆、もう仕方ない、もうだめだ、と、さも当たり前のようにいうのだ。

そこで思うのは、こんなに小さいのに家作を幾つも得られた一時代を築けたのは何故かを、皆忘れていることだ。

車がなかった時代、幾ら歩いて来られるところだからといって、忙しい中時間を割いて小走りにやって来る客たちの「顔」ひとつひとつを心に念じ、彼らが有り難く思う何かを探し求めたその時代、界隈はそうして常に街を思って学ぶ小店の人たちの商う品で成り立った。そして今、学びを忘れて手狭ばかりを晒し、疲れて消える道を選ぶなら、そこで命を紡いで来た界隈は、一体何なのだろう。品揃えだけでは、そうはならなかった筈だし、間に合わせばかり追い求められ、それに追随した訳ではない。尤もその時代、間に合わせなら、近隣で助け合って何とかしたもんだろう。

私が客としていうなら、大きな店は苦痛だということだ。どんなに大きな店でも、印象として持てるのは、自分の思いが響く極一角、一枚の棚に仕切られた一隅だけであり、そのために、よりによって油を焚かされ疲れさせられてそこまで赴かされる。多少安いという利点はありそうだが、油代がそれを凌ぐ例が殆どだ。油を焚いてでもそこに世話になりたいと思うことは余りない。それが本心だ。
だからこそ、強く感じるのは、そういう大資本の客集め優位の示す価格を元に暮らしや仕事を組み立てると、そうした自分迄大資本の都合でどうにかされてしまうということである。資本の勝手で、儲からなくなったからとか、地権が切れたからとか、どうやってもこちらからは伺い知る手がない理由で店が畳まれてしまったら、次なる手段は自分も畳まるしかないことになる。

既に、そうなって最悪の事態を齎している地域もあるようだ。大店鋪が多少なり集客力があるのは仕方ないことだが、旧来の商店は、何等かの繋ぎを持つ必要があるかも知れないが、常に必需に応えられる何か、大きいばかりでは成り立たないものを改めて見い出し、頑張りたい。本当ならわが街の何屋さんであるべきなのだ。

それがあって初めて、ネットを始めとしたもっと大きなところでものを言える今の商業者となり得ると思う。そこでは、人々は「無駄こそ得の元」として考え、少々の遠出は勿論、輸送経費等、無用としたいものさえ、受け入れるに違いない。

大事なことは、何を買うかより、何を得たいのか。品物の価値も大いにそれで決まるだろう。モノなら代わりは幾らでもあるが、気持や思いは、ひと各々で同じものはひとつもない。全てを殺伐荒涼に帰す前に、売る人も買う人も、人としてのやりとりを求めることこそが、現代的なのではないかと思うし、それが次世代を発展させる唯一の方法だとも考える。人がいれば、古道具はもっと輝くし、新しいものにはさらに夢が備わる。
性能や品質だけでは、モノや仕事は語れないだろう。況して、大きいからといって全てが優れているとは、限らない。