編集者記:
こちらは友人の手記から引用したものです。この方はいろいろな事情を御自身の経験と照らし、御自身なりに検証して得た思いを手記に綴られ、時折私に開いて下さいます。
以下の文面は、この方の貴重な体験の記録です。大切なことが多くある為、後々の概念を育てて頂く為にお読み頂いた方が善かれと判断し、掲載します。
標題や登場者名、文章の一部は、編集者による改訂を加えてあり、原本とは異なります。


:闇舟:

あたりに人気(ひとけ)のない工場内の桟橋に異様な船が着いている。
黙々と人が集まる。
乗り込んだのは日本人30数名。船頭4、5名。
それぞれにリュックサックと手に持てるだけの荷物を下げている。
場所は北朝鮮城津の日本高周波重工業の波止場。
時は昭和21年9月。
見送る者も送られる者も皆、声をひそめあたりをはばかる。
乗り込んだ中に2人の兄弟がいた。兄11歳、弟8歳。
弟が出航前のわづかな時間にちょこちょこと出て行き、手のひら一杯の野の花を摘んできて、「これをノンノさんに上げて」と母に渡した。
その心根の優しさと、もうこれで生きて会えないのかとの思いで泣いてしまったと、今年89歳の母はいまだにこの話をしては涙ぐむのである。

その船を「闇舟」といった。
敗戦後の北朝鮮にどのような秩序があったのか明確でないが、その船はいろんな意味で非合法だったから「闇舟」と呼ばれた。
船は木造船である。帆掛け舟である。エンジンはない。
北朝鮮に残留していた日本人が金を出しあって購入した南への脱出船である。
許可証も旅券もない。難民船である。

「闇舟」としか言いようがない。

兄弟は父母と別れ、2人だけでこの船に乗せられたのだった。


:状況:

昭和20年8月9日、ソ連軍は突如満州への侵攻を開始した。
兵員170万人、航空機5千機、戦車5千台の大兵力だったという。戦後処理で日本への分け前確保を狙ったスターリンが急ぎに急いだ攻撃であり、ヒロシマ原爆投下の3日後のことである。
この攻撃部隊が城津に到達したが8月23日であった。

日本高周波重工業城津工場は鉄鉱石から製鋼、特殊鋼製品までの一貫製鉄工場であり、日本人従業員2600人朝鮮人従業員4500人を擁する大軍需工場であった。
家族を含め在留日本人は4300人を数えた。

ソ連軍侵攻および敗戦を迎えて、城津の日本人はほとんんど為すところなかった。情報と指示が途絶えたのである。
そしてソ連軍の第1線部隊の進駐でたちまち厳しい現実に曝される。彼らは戦闘部隊であり、囚人部隊であるとも噂された。
砂塵を捲いて進入する戦車部隊。沿道に旗を振って迎える朝鮮民衆。鳴り渡る銃声。
兵隊は女を求めて日夜民家のドアを叩き、略奪は日常茶飯事だった。腕には10個もの腕時計を付けていた。父は拳銃で殴られて歯を折った。朝鮮人の暴動も始まった。

工場の主だった幹部は拘置された。結局工場長は殺され、技師長の帰国は10数年後となる。
我々にとって幸いだったのは彼らが軍需工場への価値を見出したことであろう。はじめ彼らは重要な機械を撤去して本国に持ち去った。そして20年12月には一部工場の操業を開始する。これらの仕事を日本人に任せた。
トップを失って残った城津工場幹部は操業再開の組織を作り、邦人支援や祖国引揚げのための「日本人世話会」を作った。そして朝鮮人従業員への預り金・退職金支払い等の残務処理を行った。またソ連軍と交渉して工場社宅への居住の保証を獲得した。
父は当時34歳、経理課予算係長として幹部の一翼を担った。

この社宅居住の確保こそ我々の最大の幸運であった。
敗戦により日本の行政組織は消滅し、満州および朝鮮の日本人は一切の国家の庇護を失った。そしてまず住宅を奪われた。
満州から、そして朝鮮国境から、家を失った日本人が続々と城津を通って南下していった。
「連日連夜来る日も来る日も真夏の炎天下を、敗戦の日本民族が大河となって流れていった。老幼女子からなるこのみじめなる大河の流れは、日本の歴史上いまだかってなき悲惨を極めた風景であった。道々略奪暴行を受け、へとへとに疲れ果てては野宿し、歩けるぎりぎりまでを歩きつくして南朝鮮を目指していった。」
と記録は記す。
藤原てい「流れる星は生きている」がその姿を伝える。
彼ら難民にとって高周波社宅に住み続ける我々は天国の住民の如くに見えたという。

4300人の在留日本人もそのまま全員が残ったわけではない。ソ連軍進駐前に逃げた者もいた。その頃はまだ南朝鮮への汽車が動いていた。歩いて逃げた者もいた。しかし大方は結束を保って帰国の時期を待った。一つにはソ連軍が工場再開のために日本人の移動を禁じたからでもあった。

20年3月、ソ連軍は工場維持のため約200名の「残留者」名簿を発表した。かくして日本人は「残留者」と「帰国者」に分けられた。父は残留者に指名された。
しかしソ連軍が行ったのは残留者の指名のみであり、簿外者に対し日本帰国の手段を用意する意思はまったくなかった。

日本人世話会は、帰国の方策を検討することになる。

在留邦人の中には出征兵士の家族も多い。乳幼児もいる。歩いての北鮮脱出は不可能と結論した。そして選んだのが海路による脱出であった。

全くの素人が知恵と努力を尽し、最初は発動機船をチャーターし、その後帆船の漁船を3隻買い取り、工員中の操船経験者を船頭として南朝鮮への往復航海を行った。100名前後を乗せ、21年9月までに残留者を除くほぼ全員の輸送を完遂した。あの混乱の中、幹部のある者は京城、東京との往復を果たした。船員は何度も生命の危険を冒した。
これは、引揚史上に残る偉業だという。

何故帆掛け舟であったのか。戦時下、民間の発動機船を建造する余裕がなかったこともあろう。ソ連軍あるいは北朝鮮当局になんらかの意図があったのかもしれない。いずれにしろ船は老朽の帆船漁船であった。航海の間には何度も帆柱が折れたという。
ソ連軍は残留指名者以外の日本人脱出を黙認した。しかし北朝鮮当局は必ずしもそうではなかった。北朝鮮警察や軍もまた別であった。
「闇舟」たる所以である。

この船の経費を賄うため大人500円、小人300円を徴収した。すべて自力のプロジェクトであった。
東京までの潜行を敢行した幹部が、日本高周波本社および外務省に折衝したが何の援助も得られなかったという。

当時の貨幣価値を私は知らない。しかしそれが大金であったことは確かだ。
少なくとも出征家族、養成工らには、その金が工面出来よう筈もない。日本人世話会は日本人仲間に「引揚資金証券」を発行して資金を募り、彼らを乗せたという。
個人間の貸借にしない知恵であろう。

帰国。
海外日本人の希望はその一点にかかっていた。日本に帰国しさえすればすべての問題は解消すると考えていた。


:敗戦後の生活:

満州で敗戦を喫した者の生活は、「昨日迄」とは一変する。
その日からの生活は「売り食い」であった。
売れる物を売るしか生活の手段はなかった。敗戦国の製鉄工場の従業員には、ほかに何をする知恵も技術も環境も時間もなかった。
家財や衣類を、闇市に持って行くか、朝鮮人が買い取りに来るかして、生活費とするのであった。

売る物がない者は食えなかった。
そのために、養成工がまず飢えた。
養成工とは15、6才の青年を内地から呼び寄せ、寄宿舎に入れて一人前の工員に育成する制度である。
彼らには売る家財・衣類がなかった。
早い時期に歩いて脱出した者もいたがが残る者も多かった。城津を通って南下する難民の悲惨さが歩いての脱出をためらわせた。

ソ連軍による日本人移動禁止命令のみあって、現前の生活手段も先行きの見通しも何も与えられないままの不安の時期が続いた。しかし工場の製品および機械設備の搬出が始まり、日本人はその使役に駆り出された。12月になって工場の操業が一部再開された。1200名が働き、それらの労働に対して大豆・高粱の配給と給与が支給された。
これでも若干の秩序が戻った。

日本人は配給の食糧および給与をプールして皆で配分した。出征留守家族や養成工にも配分された。
正月を迎える日、「ごめんなさいね。これしかしてあげられないのよ。」と言って母が闇市で買った飴玉を2粒くれた。どうして親が子供に謝るのか不思議に思ったことを兄は鮮明に覚えている。ほかに正月の料理はなかった。飴玉とて、他の同居家族の眼を憚るものであったのかもしれない。

栄養失調者は続出し幼児の死亡が増加した。脱出者の空家も増えた。出征遺家族、養成工、養成看護婦など生活力なき者の困窮が深まるなか、社宅集約が実行された。
我が家は、我が家族(父、母、長男10歳、次男7歳、長女4歳、三男2歳)、母の妹およびその連合い(高周波社員)、S出征社員の家族(妻、幼児、乳児)、養成工2名の13人の所帯となった。

子供たちはいつも群れていた。群れて遊んでいた。親に子供を顧みる余裕はなかった。トム・ソーヤーのように樹上に小屋を作って寝泊りしたり、ゴムのパチンコで鳥を撃ったりして、それなりに楽しいこともあったが、群れるのは朝鮮人の子供に襲われるのを避ける意味もあった。

ソ連軍の行進には必ず歌があった。リードテナーの声は素晴らしく、いつしか一緒に歌うようにもなっていた。戦後うたごえ喫茶でそれらの歌を聞くことになる。

21年3月になり、ソ連軍は工場操業のための要員200名を「残留者」として指名した。他の者は不要者である。
200名の配給食糧と給与で全員は食えない。いよいよ帰国を図らなければならない。売り食いで再度の冬を越すことは出来ない。真剣に帰国の方策が練られた。こうして「闇舟」による脱出が始まった。

それはそれで大変な英雄物語を持っているのだが、父はそちらの方の係ではなかった。

父が長男と次男を闇舟に乗せる決心をしたのは、9月になり第2次の「残留者」として指名されたからである。少数の技術者とソ連との折衝当事者だけが残された。父は「このまま日本には帰してもらえないのではないか」と感じた。どうせ外地に朽ち果てるなら、子供だけでも運を天に任せて送り出そう、と別離を決意したのだ。
父母と、幼い長女と三男は、意に沿う沿わぬに拘わらず、父が残留を命じられ、また内地に頼りを求めるも烏滸がましければ、残る他なかったのであった。

すでに「帰国組」の脱出は終わり、それは最後の闇舟であった。共に働いてきた、「残留」を解除された者たちが乗り込んだ。
父は同居していた養成工YとTを守役につけ、11歳の長男と8歳の次男を海に送り出した。21年9月下旬のことである。

:闇舟の航海:

38度線を越えるまで航海3日の予定であった。
船は沿岸の北朝鮮漁船や警備艇を避けて遠く沖出しした。深く、蒼い海だった。
エンジンのない帆掛け舟は静かに静かに進んだ。
兄はひたすら海の底を眺め続けた。夜はデッキの上で星を見上げた。
デッキの上は夜露が降りる。しかし船内に兄弟2人の寝場所はもうなかった。
すでに乗り込んだ最初から、居場所の確保や食事の配給において、「親のない子」の立場の弱さを感じさせられていた。

3日目は嵐になった。
結局目的の港に入るまでに7日を要した。

嵐の中での大人の狂態を、差別を感じていた兄はむしろ<いい気味だ>と思って見ていた。
老朽の漁船の上で、トイレはとても女子供の使えるものではなかった。8歳の弟がどのようにしたか、覚えがない。

40名分の炊飯の設備はなかった。なにより水が切れてきた。飢えと不安が船の上を覆った。

最後の日、北朝鮮警備艇の銃撃を受けた。拿捕が目的だったのか、海賊目的だったのか、判らない。ただ銃口の閃光だけが強烈な記憶である。
それをどうして脱したのか、覚えていない。ちょうど米軍のボートが通りかかったような気がするが定かでない。

入った港は注文津(ちゅうもんしん)である。
この時期、南鮮における日本人引揚げの拠点として米軍のキャンプが張られていた。ここから日本内地向けの引揚船が出航した。
このキャンプに兄弟2人は10日ほど滞在した。この頃まではまだ2人の養成工は一緒だった。

そして内地向けの引揚船に乗った。リバテイ船と呼ばれる戦時型貨物輸送船であった。

着いた港が佐世保である。内地の山の緑が眼に染みた。

:旅の残り:

目的地は祖父母の住む愛知県渥美郡福江町(現渥美町)小中山であった。
守役の養成工はそれぞれ故郷近くで降り、わが兄弟2人は進行方向に進む人に託された。思えば彼らも18、9才の未成年だったのだ。
託された人が終点まで来たわけではない。次々とリレーされた。名古屋駅やどこかの農家に数日留め置かれたこともあった。多くの人のお世話になったが、多くの危険を踏んでいたようにも思う。佐世保から2週間以上を要している。

最後に託された人は福江のバス停まで我々を届け、祖父に電話をして去った。祖父母は吃驚仰天したであろう。孫が2人、いきなり福江に帰って来たというのだ。祖父は4キロの道を走った。まだ車のない時代であった。

21年11月、わが兄弟は小学5年生と2年生に復学した。1年3ヶ月の学業ブランクであった。

兄は全身に吹き出物を生じ、悪童に「ネブツ問屋」と囃された。中学では肺浸潤で3ヶ月休学した。欠食と栄養失調の結果であろう。

父母と妹、末弟は1年後に帰還した。豊橋の駅頭で再会するまで、親は子の安否を知らなかった。

:小中山漁港:

小中山は渥美半島伊良湖岬をちょっと三河湾に入ったところの半農半漁の小村である。兄弟はすぐに半農半漁の生活に入った。麦刈り、田の草取りの辛さが身にしみた。稲束を満載して兄が曳き弟が押すリアカーが坂道で制御出来ず、養魚池に飛び込んだことがあった。

この時期、物資の不足から日本全体が本卦がえりしたというか、機械や動力のない時代に戻っていたような気がする。すべてが原始的だった。例えば脱穀も精米も足踏み式でやっていた。そんな動力機械がなかったはずはないのだ。

春には西の浜にコウナゴが押し寄せた。それを地引網でとり、浜で大釜で煮て、筵に干して煮干にするのである。村中総出の作業だった。
このコウナゴが寄せる場所には筋があり、何度網を入れてもまた同じ場所に寄せてくるのである。だからその筋に網を入れようと、何統もの網船が順番を待って並んだ。後ろから押されるから並ぶことを<オサレ>といった。この網船を勇ましく櫓でこいでいた。4丁櫓だったか。今から思えば信じられないことだ。沖に出る漁船は勿論もう動力船だった。
地引網を曳くのに中学生になれば半日当が出るのに、6年生には出ないのが悔しかった。コウナゴが寄せる日、半鐘が鳴って学校は臨時休講になった。

海苔の収穫、加工も1人前に手伝った。ノリソダから海苔をハサミで切り取り、裁断してタコに干す。真冬の作業だ。今はこの殆どが機械化されている。真っ黒い海苔で漁協に出荷し、いい値段をとれたが、町の人がそんなにも高いお金を払うことが不思議だった。

祖父はもう隠居の立場で、手漕ぎの漁船で小漁師をやっていた。三枚網という刺し網の一種を仕掛けて待つのである。その櫓を兄が漕ぎ、弟は網を手伝った。力いっぱい櫓を押して身を乗り出すと、足の裏を残して全身が海の上に立った。田舎では<櫓櫂(ろかい)3年竿8年>という。竿を操る方が難しい。

結局小中山の生活は1年10ヶ月で、豊橋市に移る。

しかし闇舟体験と小中山体験で海は徹底的に兄の身体に染み込んだ。弟は兄と同じ大学に進み、ボート部の代表幹事を務めて卒業した。

戻る