欲の塊

郵便事業と云う新手の国営企業?が、準国営企業日本通運の一事業を吸収するという、ど〜う読み替えても「まんざい」が実行された10年7月、いきなり、思いきり良くばかを露呈した。折しも夏の進物真っ盛りの時期に、未着の嵐を生んだのだ。
準国営企業は元々運輸省直轄の陸運事業、国鉄と双璧する存在であった。郵政省は勿論郵便をやるところで、これは迷いようがない。陸運の方は、鉄道の手薄を補い、地域の輸送を繋ぐなど、パイプ的な役割を長年担って来た老舗である。その後、八十年代半ばから台頭し始めた宅配事業に、晩生乍ら参入、このところは毎日22万個の荷を扱い乍らも、毎月50億もの赤字を垂れ流していた。一個あたり800円、これは儲けでなく、一個に注がれる経費に上積みする補填額である。便の利用者は正規の額を支払っている。何も一個の運賃一千円を払えば800円が貰えると云う有り難い話ではなく、一千円売り上げるのにそれだけ払っていると云う、5歳の子供でもやらないような商売の話である。
そこで、「まんざい」は、思い付かれた。

どうやら、この格好悪い商売の態を晒していない国営もどきの何らかを人間ごと拾って助けて目立とうと云う様子のものであった。郵政としてのボリュームもあるから何とかなるとでも思ったのだろうか。

私は自分で云うのも変だが運送業には一寸煩い。大元は音響機器の貸出業者として世出したからということからだが、そんな内輪の輸送さえ、うんと忙しくしていてもチョット足らない、という位が丁度良いのが運送業なのだ。クルマが一台遊んだだけで、人が二人だぶついただけで、足が出ると云うものなのだ。

そこに大ダブツキのものを背負い込んでやろうと云うのだから甚だ面白い。大体荷一個あたり800円も注ぎ込むこと自体がダブツキ以前の問題なのである。この原因は社用の過多とそれに対するディスカウントの酷すぎることから齎されているのではないか、と、誰でも考えそうなことだが、話をでっち上げる方が何も知らないようだから愈々愉快で仕方ない。

ちゃんと収益を上げている業者でそのことをいうなら、これは当然あると云える。固定ユーザーとして名を固めたところには2割等割引、所謂卸値を設定して提供する。この程度の割引なら、ちょっとした個人商店でも契約すれば得られるのだ。但しこれも増え過ぎると事業を矮小化し、幾ら忙しく働いてもさっぱり足らないようになってしまうのでバランスと云うのが必要だ。そこで、契約を受けて貰える為に、商店と云えどもクルマが横付け出来るところで事業をするとか、出荷所を設ける等工夫する必要があるのだ。そういう「利点」がなければ契約はしない。それが運送業者の保身策である。利点の分だけ割引きすると云うのが本音である。もっと先に進めると、中にはもっと安値を欲する事業もある。特に通信販売業者等になるのだが、自社の経営する流通センターの中に在庫一切をコードやスケジュールと共に吸収、利用させることで、一個単価を300円とかにしてやる。運用部分からも収益を得られれば、流通輸送そのものからの収益がないか、赤字であっても補える部分がある。安く荷を送るということは、流通に使われる距離を縮め省力化する努力が荷主側にあることを知り、そちらに投資すれば、運賃そのものは下がる。伸びゆく賢い販売者達はその掟を守っている。
何れもそれ以上に、通常の利用乃ち「一見で引取から配達迄頼む」一般利用が相当数あって成立する派生事業であることに間違いない。

準国営はこのあたりが大変手薄であった。契約便ばかりが山になって、ただ荷を増やすことだけに奔走し過ぎた。流通の端々の距離を、センター運営等で縮める努力なく、ただ闇雲に伸ばし過ぎた。荷数が伸びないと他では扱わない大物に必要以上に手を出し、横付け不能な場所でも構わず契約を集め、値引きも大きくとった。
それでも儲かっていたのは、恐らくその時代、そこが基幹としていた物流輸送事業が回っていたからである。足らない部分に補填額を出しても問題がなかったところを、損切りして何処かに抱かせようとしただけなのである。
儲かっていた時代に他所の真似をして、畑違いの実りに手を出したものの、思うように稼げず、他で埋め合わせていた。邪魔になったら罷めれば良いのに、放置したから誰かが犠牲になる。

こういうのが纏まるというのが噂だった頃、この仕事の末端に就いている知人は呆れてこう云った。
「絶対破滅する。捌けるかどうかと云うだけではない。採算にする為には、多分国営の方の人間も部署も、全部要らぬにしなければならない。そう出来たとしても、残った腐れ契約とかはどうする気だ。」
正しいルートで渡されることがルールの郵政の小包が、不作法にあちこちから安値で沸き上がる不躾を良しとして来た宅配を許容する部分は極僅かだと云うことは、現場では良く分かっていたのである。
吸収するにしても、全部郵政式に改めて受け入れるのなら話は別だ。その則に沿わない客は去れば良い。いや、去るしかない。それほどの我侭を受入れられる場所はもうこの不景気が定着した世には残っていない筈である。

結局、ハチャメチャになった。
何日か乱れるのは織り込み済みというなら、勿体つけず遅れた分は全部弁償をして歩け。それが誠意と云うもんだ。

と、いいつつ、私も笑えない立場なのだ。
うちは、基幹業態が楽器製造修理販売となって以降も、曾てより提供していた海事関係サービスを同じように開いていた。但し、分かっていることは海事関係事情はどんどん萎む一方だということ。音楽が萎まないかと云うとそうでもないが、それは視点が変わっていくだけであり、強いて云うなら緩やかにしていく努力が効くということである。
音楽は、需給側も需要側も、最終的には心と心である。誠実とかいう表面的な問題を越え、趣向意欲がその完成を左右することを需要者なら皆分かる上、その心を持っていて尚克つ売れるのがこの世界のプロというもので、何百年も続いて来ているのだ。
ところが海事は実効あるのみである。五万円掛けたら十五万円入って来なければ成立しない対価ビジネスが本来の姿であり、レジャーとて単なる消費で終われる人は少ない。器用な需要者は需給に頼る部分を減らし、自分からサービスをし、売上減を補う努力をするが、それがない需要者は単純に我侭を需給に押し付けて来る。最後には喧嘩を売ってでもツケを減らそうとする人非人が大層多いのである。これは必要とされ続ける時代には不可欠な仕事だと思う。一旦不調を見た機械類はその後連綿と不調を呈し一切復元することはないが、重なるうちに伸びる乗員のスキルとプロの技術が奏功して効果が達成されるものでもある。現況では動きが弱過ぎ、乗員の成長が期待出来ないばかりか、素人と豪語し乍ら有償で乗客を募る頓客船迄現れる始末であり、ともすれば危険の片棒を担がされかねない。ことは日を追う毎に剣呑になっていく。相当深入りしているが、何処かで切らぬ訳にいかない。
この全く正反対の両方を、同じグループにてマネジメントすることは愈々叶わんのではないか、と、賢くなくてもいい加減、解析出来るようになる。

郵政が暴挙を示す当日付けで、当社はこれまで提示していた郵政同等の乱暴を閉じた。最も代価の証明をつけにくい営繕・修繕業務のユーザー販売を罷めた。

曾て儲かったこととか、楽しかったことには、誰もが格別の憧憬を抱き続ける。でも、時代に合わせた調整は必要なのである。何百年も続くような仕事もあれば、四半世紀保てば上々のものも当然多い。中には開いて一時だけ、というものもある。それぞれの仕事の立ち居振舞いをよく読み、曾ての様を良く学び、あるべき形にして一時期を担うものである。

切り離すくらいなら、自分で引導すべきである。とっくに死んで腐った牛を貰っても、食えないんだから仕方ない。それを売買いしようと云う、百鬼夜行が罷り通る時代である。

静かに、よい音色に浸る仕事で残りの半生を過ごすことにする。