こどもとおんがく

普通、音楽と言うのは、幼い頃からの体験と経験がその向上と次なる展開に寄与すると言われます。実際、そういう経験をして来た人が、発展性を持っていることも事実です。
音楽を構成する中には、「声」を用いる声楽と、何かしら楽器を用いる「器楽」、それと、とても重要乍ら目立ちませんが、音楽というリソースをつくり公開する「制作」、監修し商品に相応しくする「監督」、それを聞かせる「技術」という分野もあります。さらに突き詰めるなら、音楽という文化を育てる「資本」を見のがすのは、これを語る上で余りに素人じみています。
どれが難しく最も経験や才能が必要かと言うと、それはどの分野でも同じなのですが、格別、技能として個人で保有し行使する部分だけを捉えてみると、それは声楽と器楽に留まります。その他のことに関しては、技能も然るべく必要なのですが、やはり実現には党を組み、議論があり、協調と協働を以てして完成するものですから、ここではちょっと後回しにしましょう。

声楽とは、専ら道具を使わず声だけを使用するのはそのまま名のとおりです。乳児教材(大流行の兆しか)にも、先ずお歌を唱おうというのから取り組まれています。道具を使わないから簡単、なのでしょうか。そう考えがちですが、これは、兎に角何より最も難しい分野なのです。声と一言にいっても、語り口調、喋り口調、ひそひそ口調、怒鳴り口調、叫び口調、泣き口調笑い口調とシチュエーションに応じて「声」を使い分けているのですが、声楽にはそのどれもが必要になり、音階を制御していなければならず、基礎を踏襲し発展させるのに多大な時間と努力が必要だ、ということは、まず感じられることだと思います。流行歌手であれ伝統音楽の唱歌手であれ、クラシック歌手であれ、終生の課題は、泣き笑い叫び怒る語りを歌として唱い上げることではないでしょうか。オペラやミュージカルになってくると、唱って踊って演技をしてと数々の技能に達していることが望まれ、全てに完全であることを望むほうが愚かしく感じますね。それに、歌が苦手という人が多いその理由に、人前で唱うのが「恥ずかしい」という、克服に度胸が専ら求められそうな心理的障害がありますが、こちらは自信という後ろ楯でカバーしていくものなので、一層長くそれに触れ、希望があり、姿勢もあることが、内面的要件として必須でしょう。カラオケでマイクを離さない人は、こういう部分では吹っ切れている、精神的に一枚上を行く兵ですかね。でも、プロミュージシャンになってくると、「恥ずかしい」「恐い」を乗り越える緊張を内面に醸し出せ、自分を追い詰めることが出来ないと、成功しないといいます。しかしながら自信を押し潰して原点に還り、それをストレスとしてエネルギーに出来なければならないのは、プロだろうとアマチュアだろうと、どんな仕事にも同じことでしょう。好きなこと程恐ろしいことはないのだということが分からなければ会得したことにならないんでしょうね。

器楽、といっても、楽器で鳴らす前に声に出して唱ってみるのは標準的なプロセスでありどんな作曲者もそうしてイメージを膨らませて楽器で鳴らしてみて譜面に落とすんですから、基本に多少歌があるのですが、発音して人が聞く段階では声を使わないものなので器楽です。いろんな楽器があります。多過ぎてどうにもなりませんが、分かりやすくする為にポップス系ビッグバンドを例にとってみますと、打楽器系のドラムス、ラッパや笛を総称してホーンセクション、リードギター・リズムギター・ベースギターにバイオリン系といった弦、シンセザイザやピアノを扱う鍵盤が、ボーカリストといわれる声楽家の歌をのせるため控えます。

叩けば音が出るので簡単そうなドラムス。大掛かりになるとリズムセクションといって、コンガやボンゴの奏者も合わさりますが、音楽の大本を築くリズムを一団に与える仕事はこの組合せの場合ドラムス奏者が担います。これはマコトに難しい楽器の一つです。ちょっとリズムをいじるだけで曲相が変わってしまうのですが、人間と言うのは浮かれる時と沈む時が交互にあるものなので、それらを抑えまた引っ張らねばなりませんが、ドラムスの与えるリズムと抑揚がまさしくその場その場に相応しい心を呼出していなければ音楽そのものが成り立たなくなります。単独でただバコバコ叩いているだけでは雑音にしかならないそれを、音楽にするのには感性が重要です。これは信奉したからとて、習ったからとてなかなか身につくものではない、才能と、影響感化を含めた経験が必要です。早くから芽を出す人にはなかなか巡り会わないのはその為で、声楽と列んで難しいセクションです。こどもの玩具的な楽器には、この叩いて音を出して遊ぶものが多いのですが、「リズムの練習になる」とはいわれるものの、実際リズムの取り方というのは扱う楽器によって様々で、脳内でリズムが取れても楽器をその通り鳴らせるかどうかというと、やはり楽器により様々で習熟することなので、仮令カスタネットといえど、それで旨くタタケタからと「リズム感がある」と早決するのは考えものです。

ラッパや笛の類い。楽器的には、安く買えるものもとても多く、上限もあり、親しみ易い上に、金管楽器に限って言えば結構丈夫です。日当たりのいい、暑いところで演奏しても壊れません。木管楽器は高価なものが多く感じますが、これも結構限度があり、使えるだけの孔数があるものを持てばモウ大体一安心となります。一個でもそれなりに音量があり、喧噪を乗り越えて音を届けることが出来ます。しかしこれらは、演奏の難しさに関してはどんなものだろうと果ては知れずで音楽性にもよるので触れませんが、寸法が、音程の為に決まっている為、取扱うのに「体格」が必要なのです。孔に指が届かない笛では困りますし、重くて持てないラッパでは作業に着手出来ません。音源の動力は吸込んだ空気ですから、ちょっと風邪ぎみというだけで降番となります。身体が資本なんですね。なかなか、おこさまの持ち道具としては相応しくなりにくいものです。

弦楽器、ギターは大変普及しました。お値段も割に安くていいものが多くあります。但し、やはり寸法の問題はつきまといます。音源が糸であり、短くすれば小型にはなりますが、奏法はそれを弾いて音を出すので、振動を継続させる為には、糸はそれなりに長く重くなければならず、限度があるのです。一般的な680mmスケールという標準を、半分にしてしまうと、別の楽器になるのです。ウクレレになっちゃう、という訳です。ウクレレはハワイの民族楽器です。その小型な手軽さを狙ってポップスやクラシックを「開拓」しようとしている演奏家は多く居ますが、あくまで開拓であって、完成を待ってから習得しようとすると、おこさまは大人になってしまいます。

鍵盤。町中にピアノ教室があり、常におこさまを集めています。ピアノは現在、重い大きなフレームを必要としない電子楽器が主流になりつつあり、置場に困るというハードルはなくなりました。音感や音階を教育するにはもってこいの楽器で、ある決まった音程は、それを発する鍵盤を押すことで得られるという、音を作る仕事は道具任せの結構な楽器なのです。作曲家の多くも、音程のチェック等に便利な為ツールとして用います。演奏家は「技能」を持つだけで足り、それがあるところなら何処でも演奏出来ます。しかし、電子楽器になったとはいえやはり大型であり、自分のものは自分のうちにしかないことになり、「篭る」ことにも繋がります。こどもはもっとひろく交遊を求めるべきです。

じゃあ、こどもに経験させるオンガクがないじゃないか!と言われそうね。経験させるということは、その後の継続を期待せず、体験として他のものごとにそれを利用させる財産にするという意味ですが、それがオンガクだったらオンガクにしか使えないのは甚だ勿体無いと感じます。
そらきた、またバイオリンだよ、しょうがないなココは。と、まあ言って下さい。

バイオリンは、最も小さいものですと、凡そ標準サイズの半分の長さになります。でも、バイオリンの形をしており、操作感も全く同じで、奏法も同じで、バイオリンの音程を持っていて、そのナンバーを演奏出来ます。音階も機能的には予め与えられていないので、相応しい音階を得なければなりません。たくさんの部品が露出していて、大切に扱わねば壊れてしまいますし、折角調弦した音程がずれてしまいます。弓と言う別の道具を使わなければ鳴らせませんから、何かをする為に何かをするという段取りは覚えねばならなくなります。人の暮らしには段取りは必ず必要です。ただ、叩いたり突いたりすれば音が出るものでもないし、物理的に持てないものでもありません。大人が扱うそれと同じように扱うことで自分のものに出来ます。そう、先ず自分のものという感じ。これは動物には余りない、人間固有の保有欲というものです。なにか自分のものがあると安心する。そのために人間は生涯掛けて散財しますが、それが勤労意欲にも繋がります。そして、それから得られる音楽は、また自分のものです。自分のものが別の自分のものの為になる。玩具はこどもを育てますが、最近は電子音がピコピコ鳴るものばかりで、音自体を制御することはナカナカ出来ませんが、バイオリンは、制御して音を得れば、次へ次へと発展していきます。持てること。欲張れること。欲張らなければ次のお楽しみはないこと。これらはバイオリンから得られる特典です。

これは擦弦楽器で、共振共鳴は必要なれどサスティンを性能としてしないこと、かつそのカテゴリの中でソプラノという最高音部を担うという、幸いそこにいたというポジショニングから得られた偶然です。なかなかそう狙っても、そういうものは作れません。さらに、小型で同じ性能の楽器がつくられ、何苦労なくそれらを手に入れることが出来ます。

こどもたちにおんがくを経験させる、ちうと、大体英才だのスパルタだのと漫画のようなネタになりがちです。仮令誰から教わろうと、いろいろな条件がその後絡んで、続けられなくなるというのはあって然るべきですし、必要とあればそれを自然に受け止めるべきです。私は当初から、続かないよといって話している積もりなので、続けるというテクニックに関しては別の話になりますが、大半の続かなかった例をとってみると、案外こどもの年代には、記憶の水を抜いて容積を縮め、あたかも高野豆腐のような形にして保存出来るようなのです。将来、似たようなものごとに接して、記憶のインデックスのそれと見合った時、「即座に利用する」ことは水戻しの時間が必要だから無理ですが、「近付き易く慣れ易い」為ものごとへの抵抗感が小さくなります。続かず経験としてでしかないことがどんなことであっても、取り敢えず「高野豆腐」にはするのですが、インデックスに複数のリンクが張れない経験は、実は利用価値がなくなり封印されてしまうようです。
極幼い頃にピアノやオルガンを数年習っただけで、楽器が家に残っていたとします。罷めた理由が何であれ、またピアノの強要を受け入れることで利益がない限り、おおきくなったこどもは、再び手を出そうとしません。それはピアノなりを「今更」演奏したところで、続かなかったことを悔いるだけになるからです。ラッパを中学生の時にクラブ活動でやったからといって、卒業を機に罷めてしまったというのは、クラブ活動という条件付けがその年代にあったという経過に過ぎないのですが、これは大体中学生高校生の経験というのは授業課程でもそうですが反復して記憶を呼出し訓練を続けないと皆デリートしなければならないくらい忙しく義務が多い年代だからしょうがないのです。クラブ活動は社会活動の一環ですから、余り気持ちが入っていたとは言えないのです。稀にそれを切っ掛けに人生が変わる人があるという程度ですね。ギターになると、楽器のカテゴリ自体にも、ロックポップス・フラメンコ・ラテン・クラシックと数多に別れてしまい、音楽を見ても習得した時代の自分のモチーフとして取り入れたソースが古くなり流行遅れになったりすると、やっていること自体が古びてしまうので続かなくなるという、大人の特徴を示し出します。続ける為にはメソードにより最終的には教員になれるという目標が要ったりするのはその為です。
バイオリンにも有名なメソードは幾つかあります。勿論教員を目指す人も居ますし、職業音楽家を目指す人も居ます。習わせる大人の方は、旨くなって欲しい、良い線いって欲しいと思うのは欲でしょうが、やっぱり続かない事情はあります。他のことが好きになったとか、転居や、経済的な理由が大きなものです。でもそうして、閉じ込められたバイオリンの記憶は、「弦楽器」フレンドリイなものだから例えばギターに触れるにしても抵抗が余りありません。それが何用向けの楽器であっても、弦長を短く押さえて音程を変える奏法も似ていますし、楽器の取扱いや、性能を見る目も似たようなものです。バイオリンの楽曲というもんはむしろないので、音楽というものを差別なく広い目で見られるでしょう。逆にどんな楽器を持っても、大概音程を作らなくて済むだけさらに気が楽ですが、それより何より、ものを大切に扱うこと、一つのものを活かすだけでは仕事は出来ないこと等がバイオリンで経験されていますので、作業に使うものがずらっと並べられても、それらを常に同じ価値同じ目的意識で見ることが出来るようになる筈なのです。多分、バイオリンから離れた子は、それに必要だった意識と経験を、翌日から普通に他のことにも流用して生きると思います。記憶は高野豆腐程に乾かし切られることなく、半生の状態で、その後ずっと出したり仕舞われたりを繰り返していくでしょう。

音楽には本当に何も迷惑になることがありませんし、スポーツのような勝ち負けもありません。何ができれば偉いというのもありません。実につたない演奏乍ら格別の音楽性でオリジナルな真似の出来ないものを聞いたことがある人も多いと思いますが、そういうもんなのです。極端な話、メジャーレーベルが、空き缶と百円のハーモニカによる演奏などは絶対レコード化しないという「保証」すらない程、その商品性は実に不確実なもんなんです。既にある名曲を名演奏家のようにヤレルようになりたいというのも結構なのですが、一生の素材としての経験を残したいなら、何よりバイオリンじゃないかな、と思っていますが、ひとりよがりかなあ。

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