Q:値段に大変な幅があります。何が違うのでしょう。
A:
 バイオリンに限らず、いや楽器に限らず、同じような姿形大きさをしていて同じ用途に使うにも関わらず大層高いものや安いものがあります。どれにも共通して言えることですが、戦力の高いもの程高価なのです。自動車等は、夥しい点数の部品が用いられているものだけに、もう見た目で、高そうな部品が使われているとか、高そうな加工がしてあるものが黙っていても高く見えます。しかしながら楽器は、高いものも安いものも、素人目には似たように見えてしまいます。
 バイオリンの場合は、愈々顕著で、本当に、黙っていると、これに接して来なかった人には全く、値打の違いは分かって貰えません。さらにたいへんなことに、聞いただけでは、素人さんがオールドを弾いて、先生に一番安い楽器を弾いてもらって、さてどっちがタカイでしょうという、最近のクラシックコンサートの「出し物」のようなことをやると、大抵先生の楽器が高いと言われてしまいます...。しかし、これは楽器に違いがないことになりません。先生は少なくともそのスジのプロです。音楽をツブツブの部分から理解し、解釈して、奏でる段階に於いても、素人とは「一秒の長さ」からして違うのです。弓毛が弦に接し、動かし始め、発音が始まり、音が立ち上がっていくサマを、そういう順番でどの音に対しても読み取りコントロールしているのと、単に引き摺って音を出しているのとでは大違い。同じフレーズでこうも違うかと思う程仕事量が違うのです。仕事の量の違いは、それだけ緊張度が高いことを示します。客席の咳払いに動じず、音楽の進行を司るには、音に対する畏怖と緊張が必要で、そのお陰で聴くものは感動を得ることが出来るのです。だから、一番安い楽器が持っている欠点を出さないように捩じ伏せて奏でてみせることが出来るのですが、一時間に及ぶシンフォニーや、猛烈な密度の音の羅列を再現せねばならないコンチェルトやソロ曲において、捩じ伏せ続けることに緊張を取られていて感動が与えられるでしょうか。いや、与えられます。それだけは間違いないです。でもそれは聴いているほうの身勝手で、感動しているに過ぎません。与えた側は恐らくヘトヘトどころの騒ぎではないでしょう。ヘトヘトのことだけを見るならば、漸く僅か1分程の発表会の独奏曲をなし得る人が弾き終ってもヘトヘトです。どっちの人も、「ビールが旨い」位疲労しているのです。

 結局こういうことなのです。

 発する音の細部迄に透明感があり、発音がよく、音程が確かで、雑音がなく、佇まいのしっかりした座りよく扱い易い音の大きな「良い楽器」。どんなジャンルの楽器でもこういうものは高価です。上級者のしっかりした演奏にはいかにも雑音がなさそうですが、弦を擦り出すときの「ギッ」という音や、移弦の時の「シャ」という音は、傍らで聴く私には聞こえなくても奏者にはしっかり聞こえています。ホール一杯に轟く音源が耳もとにあるのだから当たり前のようですが実はそうではありません。それは、ピアニストのキータッチノイズと同じで、発生せざるを得ない音で、ソノ次に本番の「音」ありきで、音楽の中の部品として取扱われているのです。素人では雑音にしか思えないそれらが、既に必要とされるべき人であり、それだけの奥深い音への造詣を得ているからこそ感動的な音楽を作れるレベルに到達しているのです。そういう音の切っ掛けまで自分でつかめる楽器こそ良い楽器と認められ、そういうレベルの人には愛されるのですが、その度合いは千差万別百人百樣でもあります。一様に求められるのは、「透明さ」です。上級者は、透明な音を得られる楽器から、「そうじゃないこうだ」という指示を得ているのですが、それを欲しがる緊張度というのは、三千人を毎日前に並べて聞かせる仕事をして得られる境地だと思います。
 初心者でも、そういう楽器から得られる指示はある程度は必要です。その他、楽器のバランス感とか、奏でる時の滑りのよさとか、落ち着きとか、機能的な完成度も、あるに越したことはありません。しかし、それがどういうものか全く分からない、そればかりか音階さえ定められない状態の人にその透明さを説いたところで一体どうなるというものでもあります。そういう初心者の場合は、良い楽器と言うのは、ひととおり、何かしら一曲「打てる」ものであることとなります。極端な話その一曲が出来上がって、まあ自分で「これでいいかぁ」位に出来てから、さあどうか、もっと他のをやってみるか疲れるからもう罷めようか、考えられるだけの余裕がもてるものだとも思います。一万円でもそれなりに「音が大きく」出て、共鳴が得られ、調弦がスムースで、運指が容易ければ、それは充分に良い楽器と言える人も大勢いるのだということです。

 愈々面倒臭くなって来ましたねえ。では、何を買うべきかと言うことですが。

 私は、懷と相談して下さい、と申し上げます。
 なにごとにも結局お金が必要です。楽器は心が欲するものですが、人生で絶対必要なものではありません。
 私の旧い友人に、貰ったギターを使ってストリートミュージシャンをして年収の一割を稼ぎ出していた人が居ます。私が「こりゃどうしようもない」と思っていた所謂安物を、話の行き掛り上差し上げたのですが、それまで生涯ギターなど弾いたこともないのにその人は、人前で弾き、少なくとも年に30万を稼ぎ、罷める迄の間に新品の弦ひと揃えを消費したに過ぎなかったといいます。弦は私があげたときに、ケースに入れておいたもので買ったものではありません。楽譜すら手にせず、結局一度も楽器屋に出向くことなくあっさりと、音楽を収入源にしてのけて、数年という長い間小遣いに充てた訳ですが、数年前出会った時に尋ねると、もうさっぱりギターには触っていないと詫びるのでした。こうまである意味の成功を成し遂げた男でさえ、楽器が必要とは言わないのです。
 楽器が欲しくなる気持ちは、恐らく、非日常をその中に見い出したことから起こるのでしょう。その時遣い得る額のものを、信じて求めることだと思います。それがその時その人にとって最も高価な楽器だと思います。一万円で、と思えばそういうものを、百万円遣いたいならそういうものを、買ったらそれが「最高だ」「素敵だ」と思い込むことです。だから楽器には恐ろしく広い価格帯に商品が揃っているジャンルのものがあるのです。まるで、人の衝動を消化させることで償却させているような感じですが、どれでも立派に音楽を奏でることが出来るのです。それよりもっと大切な、その時起きた気持ちを達成させるという重要な責務を果たしてくれています。その後は、技能や立場に応じて「高いもの」は勝手に歩み寄って来てくれるようになりますから、また、その時許され得るものを、求めていけばいいのです。

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