バイオリンの値打

普通に「商品」を買うなら、先ず作られて未だ実用に供されていないもの、即ち新品を検討するでしょう。それは、事後の命数がそのほうが、一番長くて、性能的にも一番「近代的」で専ら良いとされるという見方です。でも御予算次第で、なるべく今のものに近いか、予算内で求める機能を得られる「中古」とされている既に誰かが使ったあとのものを考えるでしょう。その常識の中に、新品は中古より高い、またそれがあたりまえだという規則みたいなものが含まれているから、そういう順序になる、と思って良いでしょう。

楽器にだって、それがあてはまらない訳ではないのです。ものによってはなのですが。
先ず、ピアノを例にしてみると、新しいものは、移動された距離や与えられた衝撃が少ないもの、それは新品がもっとも要望に近く、その次に引越しを経験していない家庭のものが続きます。それは、この楽器は元々携帯されることを予期して製造されていないので、移動に伴い劣化の加速があって然るべきという見方をされると考えられるからです。
もっと大型のもの、公会堂や教会にあるハウスパイプオルガンはどうかというと、本来移動は考えられていません。キャビネット型のものや、ポータブル型のものは兎も角、別の所に設置し直すとなると、改めて設計し直し組み換えねばなりませんから、ことと次第によっては、「新品より高くつく」のですが、元々何処にありダレが使ったかという「別の付加価値」があり、新品より所謂中古の移設の方を希望される場合も多々あります。
では手で持つ楽器はどうでしょう。ラッパの類いや笛の類い。新品なら、一般にカタログに載っていて販売されるものは、大体性能はその価格帯で「おんなじ」と考えて良いのです。時として、音のヌケやらクセやら、メーカーの味が片寄ってもてはやされることがありますが、メーカーは、その程度のことでつまり「うちの楽器は人気があるから」というだけで値上げしたりしません。いつまでもそういう流行が続く訳ではないし、幾ら流行ったところで、増産にも限度があるからです。一日に5個作っていた所を6個にしろといわれても無理、というのが大体製造者側のペースなので、基本的に元々一杯一杯で、職人が一人辞めてしまったらもしかしたらそのラインナップは無くなるかも、という懸念もしますので、精々のペースを無理なく守り抜くのが関の山なのです。今や金属管が主流のフルート類や、クラリネットやオーボエ、ファゴットという木管にしても同じです。安いものにはそれなりの手を、高いものには魂を詰め念を入れをしますので、安いものが高いものを凌ぐ性能を持っていることは間違ってもあり得ないというのがラッパやフエの商品性です。命数はというと、古いものの音の感じや姿形を好むというパフォーマーはいるにはいるし、そういう人はそういうものを探してでも求めますが、専ら、それほど長くはありません。打撃衝撃気候の変化、演奏家か使用者か知りませんが持ち回りの激しさの度合い手入れの度合い等いろいろ条件が個体毎に変わるのですが、幾ら状態が良く正しく保守され修理されていたとしたところで、50年前のものを今通用させている演奏家はいません。大抵の場合それは無理だといわれていて、金管楽器で素人使いとしても30年、木管楽器で水に浮かぶものは20年、水に浮かないものは30年。プロの人等良く使う人はその半分も持てばいいといいます。つまり、新品が一番高いのは当たりまえ、なのですね。

そこで、ちょっと変わった環境にいるのが弦楽器です。
ギターに関しては、現在の姿になってまだ、クラシックギターといわれる中でフラメンコギターが一番古いですがそれでも百年かそこらで新しいことと、いろいろなタイプに細分化して各々成長しているので、なんとも言えないのですが、もはやポピュラー音楽になくてはならない、とても丈夫なソリッドボディのエレキギターでも、電気系統の命数は精々10年、それらをリニューアルしても、あの長いネックの大きな張力のスチール弦のストレスに堪え続けられる物質的寿命は20年といわれます。弦楽器のネック(棹)は演奏上の性能とも言える操作性をその姿形そのものが具現しており、ギター特にエレキギター程長いネックを持っていると、一旦捩じれたり反ったりして弦の響きを濁らせると調整や修理で回復させる限度というのが近く、必ず交換という大修理を受けねばなりません。それなり以上に薄く細く作らなければ速度感のある音楽が奏でられませんから、強度ギリギリで、その上木材の性能以上の体力が必要なので中にはテンションロッドという鋼の棒を仕込みますから、接ぐという修理は出来ませんので、楽器にしてみれば首から上を全て作り替える、修理というより製造に近いメンテナンスになりますので、量産性が必要な価格帯の楽器には、中古に値打はない場合の方が多くなります。「名器」になりますと、そういうメンテナンスを受けて来た価値というか、その作業代金自体がその値打になり得ます。アコースティックギターの場合は、表板が弦に「つれていかれたり」する経年劣化も加わりますので、ことさら酷くなります。しかしながら、何れの場合も、実は新品のまま、店に列んでいるままでは、なかなか即演奏活動に供せるかというと、後述のバイオリンにも共通して、案外そうではなく、糸の高さや列びの調整に始まる所謂「イニシャライジング」という作業に時間を費やす必要はあり、費用も掛かりますので、若めの中古は、時として、新品のカタログ価格より高くいわれるものがあっても、全くおかしくなく、むしろ好都合。ポピュラー向けギターの場合は大抵定価に対しての正札という売り方で「割り引き」をしていますが、安ければ良いというものではなくて、他の店より高くても、何か手が加わっているなら、むしろそのほうが安い。定価の侭売りをする店でも、店の人が楽器の佇まいというものに明るければ、仕入れた商品の侭の姿では不安だろうから、高めのレベルのイニシャライズを施しますので、結果、定価で売らなきゃならなくなった、というのが大体の、いわば結果ですので、旨くそういう楽器に出会えれば、大分近回りして実用して楽しめるということになります。

うちなのでバイオリン。これ、実はギターと全く同じ部分を多く持ち乍ら、歴史的かつそれを取り巻く音楽文化の広さが作用し、かなり、一般的な「商品」とは様子が違うものなのです。
大体、バイオリンは、ギターなら工房ものだけがそういわれるところ乍ら、全てを指して作品といいます。何人かマスターメーカーという「監修者」をもち、それらの作品をコピーする「工場」が併設されている、というのがバイオリンの製造形態なので、量産にみえるものでも案外「監修者」個人の息の掛かった製品作りをしているものなので、そういうのです。ただし、バイオリンは、所謂メーカーから商店に供給された段階の新品の状態では、エチュードの始めの方でさえこなすのは難しいのではないかと思う程セッティングが完了し切っていないのが実情ですから、イニシャライズは不可欠になります。そのセッティング作業は、どの程度で完全という完成型がなく、商店の担当者の持つ音楽性がそのグレードを最終的に采配します。これは先のギターと似ますが、同じものがバロック時代の西洋音楽の始祖のナンバーにも、クラシックにも、モダンにも、フィドルにも、フォークソングにもロックにも、ジャズにも、民謡にも、演歌流行歌謡にも、近代的な新音楽にも使われる為、担当者の楽器に対するイメージのステージの高さが完成度を思いきり左右します。メーカー品なら兎も角、工房品には元々定価がありませんから、同じ製作者のものでも、売る店によって全く価格は異なって来ます。商品として定価のある楽器を、定価を規準に売る場合は、利幅に見合ったイニシャライズしか出来ません。また、場合によってはそれ以上の手を加えても「無駄」なことも多いのですが、工房製のものには、育てる意味がある性能が備わっていますので、とことん迄手をいれますので、そのとことんレベルの差が価格の差に反映されると考えていいでしょう。そして「中古」になれば、演奏家の判定による改修も加わってどんどんレベルアップしていきます。楽器の命数も長く、数百年前のものでも実用になっているのは当たり前ですから、古く、長い間フィールドで活動した楽器は、それだけ育てられているので、その分高くなるものなのです。中古といって割安で売られる作品の多くは、定価が邪魔をして、それ以上の額に到達する手入れはされていません。そうなる前にもっと高価なものに持ち替えられているので、見限られた分値落ちしている訳で、元々が安価では、使われている材料そのものに耐久性、欲をいえば発展性が期待出来ないので、さもありなん、という感じはしますが、良く見るとその見限られたものたちの中にも、さらに高価な楽器より良い素性を感じる場合もありますからそれらは見い出され再び売られることになります。
バイオリンは、胴体だけが、当座今鳴っている音だけが価値ではありません。載っている指板に加えられた、最後の刀のひと削りが操縦性を大きく左右します。微妙な弦高と並びは、定規で寸法がとれるという甘いものではありません。長い経験と伝承、そして、その楽器を鳴らし続けて来た、共に鍛え抜かれた演奏家たちと修復に従事した担当者たちとのコラボレートが、現在の価値を決めます。

身近に目にする所では、ロックコンサートで、ギタリストが、ある曲のソロを演ずる時、大概「同じギター」を使っているのに気付く人は多いでしょうが、それが特別な一節の為に鍛え上げられた楽器であることを想像するのは容易でしょう。そういうことがあるから、彼らは楽器を多数携え持ち替えるのです。バイオリンは、全ての曲風、生まれた時代の文化を乗り越えて、ひとつの同じ楽器を使って演奏されます。ロックバンドの、その時期に完璧に歌い上げたい気持ちが多くの名器を作り上げ続ける情熱以上に、時代を超えた作品への責務が、各々の時代を生き今尚形をそのままに存在するバイオリン属の楽器にはある。古い楽器が重用されるのは、楽器が達成して来た責任を求めねばならなくなった演奏家の行き着く所なのでしょう。比較的若い楽器でも、修羅場を多くくぐり抜けて来たものはその完成度の高さは自ずと知れています。それらを纏めた存在が、価格という形になって目にされる。たまたま、古いものの方がお高めにみえるそれが、バイオリンだということです。同時に、若いできたての楽器には、それら全てを求めることは大体において難しい。そういう意味でもあります。

これらは全ての楽器、バイオリンに対していっているのではありません。正しい初期調整を受け、正しく奏でられ、正しく保守され、管理されて来たもののことをいっているのです。
ものを大切に扱う、ということは、幼い頃から「音楽」の為だけに習い事としてバイオリンをして来たら出来るというものではありません。ピアノだろうと何だろうと同じです。幼い頃にその行いを通して得られた感動が、自分に与えられた「もの」を通じて得られ、それを与えて貰えたことへの感謝を心得て、それらは初めてその人のものになります。大人になってから、こういうことをするこういうものはこう扱ってと、マニュアル的に学んだだけでは、多分凡そ、なにごとのなにものに対してもそれは適当に講じられる「たいせつなあつかい」ではないのです。感謝のない人、感動のない人の持っていたものは、どんなに高価な、或いはどんなに人の憧れを誘うようなものであっても、はっきりいってろくなものに育っていないか、ろくでもないものという位置に迄蹴落とされている可能性が高いのです。高価な楽器を得られる程「成功」し、或いはそれに酔いしれた瞬間を楽しみ、その延長上に「習って」みて、ちょっとした挫折で辞めてしまっても、自分が酔いしれることが出来たことへの感謝があれば、仮令演奏を離れたとしても「自分史コレクション」として大切に楽器を扱うことでしょう。よく、腕が伴っても来ないのに、または、やりもしないのに、楽器を持っていても「楽器が可哀想」と、中古品として安く他人に売り渡す話を聞きますが、仮に百万円の楽器を買えた人と、百万円だった楽器を中古品で三十万円で漸く買う人とでは、根本的に保守する人間の性能が違うものなので、果たして「大切に使ってくれる」かどうか結果として疑問です。もしほったらかしている楽器を手放すなら、余計なことをいわずに「どうせ中古なので」とっとと現金化したいと正直に言って売り渡す人の方が、人格的に優れているでしょうし、中古品を安く探す人なら、高性能を期待出来るものを安く欲しいからと、欲張った発言が出来る人の方が偉いと思います。高いものを間違って買ってしまったとしてもそれはそれで素敵なことですし、立派なものを安く買うことを熱望する人は、それこそ背伸びだろうと何だろうと借金してでも本物と信じて活かそうとする筈です。何れにしても、本当にそれに相応しく維持されて来た楽器かどうか、楽器商が見れば素性は一発で分かります。高額の、高性能、高品質な楽器の保守整備は、高額です。なにをやったら幾らなんて、作業基本表通りの仕事では、現性能を維持し価値を守ることは出来ませんが、廉価品に必要以上の金額を投じても、再販価格が上がる訳ではありません。つまり、当然、人によっては、一億円の楽器をごみにしてしまう人もあれば、5万円の楽器を5万円で手放せる人もある、ということを言っている訳です。ただ、バイオリンの世界では、幸いなことに、幾ら天井知らずといっても、ずぶの素人さんが一億もって買い物にいったからとて、一億の楽器を売ってもらえる可能性は全くありませんし、幸運なことに触れられたとしても、これは御勘弁下さいと丁重に断られます。それらは、持って然るべき人の所に行くように仕向けられているだけで、一般人の目に触れる所にはありません。間違って500万円位は使えるかも知れませんが、一億ぶら下げて買い物にいける人の玩具には、むしろ適当な価格の買い物だから使えたと言えます。その価値に相応しいお手入れも受けさせてあげられることでしょう。逆に反対に、数万円で納めたい人なら、無理をせず、「良いお店」で求め、無理なく保守すれば、かけがえのない友として楽器と付き合っていける筈です。何れの場合にも、楽器とは、音楽という感動を自分の手で作り出させてくれる素晴らしいものです。本物というのは、その価格に関係なく存在します。自分の楽器を本物に出来るかどうか、音楽の技術を高めるだけでなく、気持ちという内面の財産を高める為にも、楽器は利用されるべきで、決して投機や投資の為に使われるべきではないのです。

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