Q:良い楽器とはどういうものでしょうか
A:
 折に触れ沢山の御質問を頂くもので、バイオリンに限らず、ということでお答えしましょう。

 これは最も答えに困る御質問です。見てくれがいいの音がいいの、値段がいいのとありますが、どれをとってみても個人の好みが最終的に采配します。大事なことは、求める時点で「誰かしら」よく知っている人のアドバイスを受けたからといって、それが必ず自分にとっていい楽器ではないということです。
 極近いお友達にプロの奏者がいて、その人がいいと思って使っている楽器が欲しいが「高くて買えない」のでは、接近することさえ出来ないことになります。逆に、何も知らない人が、古道具屋でとても「見映えのいい」ものを買ったものの、長年のストレスとローメンテナンスでネックが落ちてしまっていて、修理代が「払えない」のも困ります。キャンプ場とかの野外での出し物に参加するのに、微妙な楽器を使うことさえ憚られるところ、重ねて「高価な楽器」を使うのもどうかと思います。
 結局、
予算を決めて、使う場所と機会をそれに重ねて考えることです。
 何時迄続くか分からないお稽古ごとを始めるのに何十万もする楽器を買うのは、仮令お薦めを貰ったとしてもちょっと控えたほうがいいでしょう。実際、楽器が買えずに、十年間も紙の鍵盤で練習していたというピアノの先生もいます。バイオリン等持ち楽器とピアノという設備ではちょっと違うのですが、違いといってもそれだけですから、「ちゃんとした佇まいの、調整が可能な手が届くもの」を求めること。そして、自分の楽器を信じることが、先ず大切だと思います。
 ものごとが嵩じて来て、「信じられる楽器」が変わって来たら、そのときに「暮らし向きが許せば」改めて求めて下さい。
 とりあえず、良い楽器への道程を踏んでいかなければ、良い楽器に巡り会っているのに気付かない結果、生涯「良いお客さん」でいらっしゃる可能性があります。四六時中買い替えているのでは自分の音作りが出来ないまま指だけ回るに留まるでしょう。

 何でもそうですが、何かを使うものごとをするときに、その何かだけを手にすれば決着することというとそれ程多くないでしょう。
 音楽なら、楽器は勿論ですが、習おうとするならレッスン代が、何か団体に加わるならその団費が、何れの場合も発表会の為の負担金、コンクールの参加費、何をするにも必要となる旅費に交通費、仲間の輪を保つ為の交際費等ナドなど、目先に纏まって見えている額だけでは収まらないいろいろな出費が延々と続きます。
 こういう、全ての環境の中に自分を置いてみて、それでも買える楽器がそもそも一番いいものであることに間違いありません。買えるとは、取り敢えず苦しくても何とか支払える額のものといっているのではありません。生活を含む全ての活動において、それが邪魔をしない支払であることは勿論ですが、必要最小限を目するものでもあるべきだと思います。

 例えばですが、大事に用意した3万円で楽器を買おうと勇んで尋ねれば、せめて十万円以上の楽器を買いなさいと言われがっかりする、というのは、大体においてその必要さえないお悩みです。あべこべに、じゃあ十万円貯まる迄楽器を買うのを待とうとする方が危険だとさえ感じます。
 楽器に向かう動機、という非常にメンタルな、金銭ではどうにも収拾のつけようがない問題を、額面を達成する迄維持し切れるかという全く別の、アドバイスする人には予測も付かないそれの方に潜む危険をどのように回避していくのかが憂慮されるのです。

 プロの活動環境に於いては、確かにその使用者たるイベンターなりプロモーターなりから演奏という作業の完成度とは別の要求をされることは多々あります。プロモーション上本来の価値にプラスアルファを与えるという、いわば商品性の為です。そのため演奏家は良い品を追い求める職務も帯びています。勿論、素人でも長く嗜んでいる方で、活動が自分の為という枠を越えてしまった場合も少々その畏怖を自然と感じていくのは仕方ないと思います。しかしそれらは経験の年月ばかりがそうしているのではなく、そのうちに要求の方向が変わっていった結果なのです。専門校などのオーディションに向かうのに必要という動機も、高い場所から見下ろせば、自分の為ではないですね。結果がマルなら自分の為、バツなら一体何の為と見えてしまいますが、これらを含め、これから楽器を持って音楽という作業を会得しようとする立場の人が、その機会を丸ごと遅らせるような動きに出るのは、元からマルもバツも探す積もりがないのではないかと感じてしまいます。

 一般的に、バイオリンに関して言うなら今は、古い程いいと見る人が増えているようです。確かに昔は、といっても大昔は、楽器を大量生産する構造はありませんでしたから、今でいう卸問屋さんのような仕事をしているお店があちこち散らばっている製作工房という小さな、いわば家内工業の現場から買い集めて、楽器店を売り歩いたものなのです。少しばかりバロック期を離れ時代が押して来ると、音楽は身近になり、より多くの楽器が必要とされたものの、大半の仕事は大量にお金持ちが買い求めて使い古した、古い楽器のモダナイズという、新しい時代向けに改造する仕事ばかりで、そのままでは新しく楽器を作る人たちの仕事がなくなるばかりか、楽器商も本来の流通に関る仕事が減ってしまいます。新しい購買層を得る為には、古い作品の模写をして、或いはそうでなくてもその名前を借りて売ることは思い付く中で一番簡単で現実的ですから、大家の模写であることとか、または大家のラベルをそのまま真似て楽器につけて魅力を増したりして、新しいものを売ろうとしたので、新しいのに古い作者の名前のラベルがあったりする訳です。アメリカというものを意識し始める19世紀末から20世紀初頭には、英語のラベルが目立つ欧州のものが増えますが、ヨーロッパ大陸はそのころでもまだ細かい国の集まりで国境さえマトモに機能していないので案外狭く、財力のある楽器商は今のメーカー的役割を担い、製作者に決まった型のものを発注、輸出用としてシリーズ化して、遠く離れたアメリカで、モデルナンバーによる受注と販売を容易にし販路を固めていったのです。

 専ら見かけるモダン楽器の多くも、専業オークション等でそれなりの値が付くようになりました。しかし、それらが持っている性能は、古さが醸し出す特別な音質の他は、殆ど現代の修理業者の手腕によるものです。修理をしなければただのガラクタに成り下がり、薪にでもなったかも知れないものを見い出して、修理という工程に供して商品化したと考えて良いものが殆どです。何十万円程度で店頭に並ぶ旧作は、大体普通の修理済中古品です。アンティーク趣味を満たすなら兎も角、それを安全で確かなものとゾッコン惚れ込むのは、少し危険ではないかと思います。幾つか持つ中にそういうものが一つくらいあると面白い位に考えて取り付くのがベターな選択です。

 17世紀初頭位迄の製品が、オールドといわれ珍重されるのには意味があります。貴族階級が幾多の市民革命や政変で没落した後も多くの職業奏者に守られ続けたそれらは、何処で誰が作ったかの生まれは兎も角、その後の育ちがいいのです。奏者が鳴らし、奏者が頼みにする業者がまた手入れをしというレーシングカーのような扱いを、何世代にも渡って受け継がれて来たそれらは、やるべきことがやりつくされ、もう信用する他なくなっています。勿論その途上で事故や窃盗紛失でなくなってしまったものも沢山あります。大体、盗んだり拾ったりした者が転売しようとしても、出所がハッキリしないものとなり、旨く売れても買い叩かれ、鑑定という高貴な行いに触れる流通から離れてしまったら、庶民向け古物になってしまいますから、良いものとしてその後を過ごすことは出来なくなってしまうのです。事故で代表的なものは、火災です。船で移動中に沈没や海賊に襲われたりして持主の奏者ごと居なくなってしまうのもそのうちですが、その後見い出されたにしても、ただの古い楽器が出た、程度で、同じ道を辿り、誰か普通の暮らしをする庶民の道具として消耗したでしょう。そうして減っていく中で、残っているものは残さなければならない人の手を渡って来たので、今たまたま良いものになって店頭にあるのです。こういう良いものは、やはり良いものを頼りにしなければならない人に頼られるべきものです。別に必要もない人が持ってみたところでどうだというものですが、珍品嗜好、アンティーク嗜好の趣味の人には心くすぐられるお品となるでしょう。
 つまり、そういうものの出入りには、是非買ったお店を窓口に願いたいものです。そういうものを売るお店は、回りのそうでないお店からそういうお店という信用が出来ていますから、お品が正しく評価されます。間違っても素人売買等でそのルートから離れた人に渡すようなことはしないで頂きたいと思います。

 管楽器等はどうかというと、兎に角新品が唯一最高の性能を齎します。古くなればなる程、音にまとまりがなくなったり、狙った音に辿り着かなくなったり、現場的な言い回しをすると、飛び出たり出遅れたりという事態が幾ら努力と技術でカバーしても頻発するようになります。これは素材である材木や金属が腐食したり、手入れ等で減ったり傷付いたり、修理で形が変わったりするからと考えられていますが、仮令長く在庫されているだけの新品でさえそうなっている事例が見られることから、不可解乍らもそういうものとして理解されています。高い安定性を期待出来る化学素材を用いた木管楽器でも、キイシステムが減ってガタが出て来ると、操作上妙なコツが要るようになって来たりしますから、複雑な演奏作業にそれを溶け込ませるのが作業量的に不可能になりますが、この程度なら、金額さえ了承(納得ではない)出来さえすればスリーブ交換という方法でリニューアル出来ますので、一般的にスクールユースのような用途の楽器には化学素材が好まれるのです。これは個人とは少し違った予算体系があり、購入は咄嗟には許されないものの修理に関しては許されるためで、割れ等完全にその機能が失われる可能性が低い安定した材料が適しているからです。
 管楽器も値段の高低はあります。安い楽器と高い楽器。違いは何かと訊ねられれば、音程と鳴りに止めを刺します。現実的に言いのけてしまうなら、高い楽器はズブの素人が吹いてもそれなりに鳴り音程もマア狙っているなという感じにとれるものが多いですが、安い楽器では余程の大家でさえ、これは大変な労働量だ、と感じる程、いろんなことをしなければ鳴らず、また音も狙い通りいかないものも結構目立つのです。だからといって皆で高い楽器を追い求めてもバカラシイだけです。小学生のブラスバンドに十万円のラッパを揃えたところで、つたない取扱の為たちまち楽器はこてんぱんに痛め付けられてしまうでしょう。高い太鼓のフープは明日にも落としたりしてひん曲げられてしまうでしょう。高いバチも安いバチも同じペースで消耗するでしょう。同じことが皆に言えるのです。立派なコヤ(ホールのこと)でしかヤラナイなら兎も角、ダシモノといえば決まって野天日晒しで雨も降れば埃風も吹くところでしかヤレナイ、或いはコヤといっても学校の体育館を借りる程度で、練習といえば空き地やら軒下やらで空調さえ期待出来ない、挙げ句エンビなんて何の衣装?スーツ着るのも勿体無いようなゲンバの素人オケで使うのに何十万もするラッパや笛を買うくらいなら、燃費のいい車でも買った方が身の為ですし、お仲間とのお茶の時間の為の費用もとっておいた方がいいでしょう。それこそプロや音楽学生並に毎日十時間も練習して音を追い詰める訳でもないならば、普通どんなラッパでも笛でも一生使って余りあります。

 大体弦でも管でも太鼓でも、音を追い詰めるのに一日2時間の練習で何とか出来ると思う方が甘いです。高価な楽器は一時的な信頼と満足は得られるでしょうが、音をどうにかするのは奏でる本人です。
 音楽とは、楽しむレベルで楽しめればそれでイイのです。仮令誰がどう思いどう聞こうが、本人が楽しいレベルに達していさえすればそれでいいと思うべきです。そこに至るプロセスをめいめいで楽しんで頂きたいと思います。
 聞く側も、もしいい演奏が聞きたければ、一流オケ・バンドの演奏会に相応の額の入場料を払って出かけるなり、高価なレコードを買うなり借りるなりして相応の機材で再生して聞くなりすればいいもので、素人の演奏をタダ同然で聞くのに何か高みを期待するのは紛っています。どんな舞台であれ、とちっても落っこちても、一度も練習に参加せず自分でもさらわずにそこに上がっている奴はいません。楽器も大切にしてきちんと揃えるものを揃え、めいめいそれなりに努力を重ねてそこに至っている訳です。バンド全体としてみるなら、人数が必要以上に多いバンドこそ完成度を安く短期間で得る努力を惜しんで居ないのです。人数が多ければ多い程、聞かせ所は分厚くなるし、少人数の楽器も一人でも多く居るので誰か落ちてもパート丸ごと落っこちて無くなるということから遠のきます。身近な鳴りものであってもそれなりの結晶が見られますから、是非そっちのほうを楽しみたいものです。

 極普通に、うちのサイトに辿り着くような、普通に買い物をしたり、習ったり、知己の友人に聞かせたりする楽しみの為の楽器が欲しい人には、出入り口はもとよりサービスマン迄指名されているような楽器が良い買い物になるとは思いません。楽器は消耗性の高いものではないので、大体どんなものを買っても「ここに辿り着く人なら」飽きたりして疲れない限りは一生使い続けられるものです。さらには、その楽器が出す音の良さというのは、奏でる人に大方左右されています。よいかわるいか判断するのもされるのも、自分自身で、少なくとも自分が楽しめるくらい唄えるようになってからで遅くありません。尤もそうなるためには、何ヶ月も何年も、血が滲むような練習と、出口の見当たらない悩みに翻弄されることもあるでしょうけど、もしかしてもしなくても、楽器をつかって某か音楽をやるというのはそういうことです。見方を変えれば、その日々を懐かしむことが出来る日がくることを、楽しみにする。趣味とは何でもそういうものでしょうから、それに長く付き合ってくれそうなお店で、楽しく買い物が出来て、その後を楽しんでいける楽器が、良い楽器だと思うことが何よりお薦め出来ることです。

金額じゃないんですよ。

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