ばぶっこバイオリンの研究・・・
はたして、この位やるようになってきた子ども、でもまだまだ「ばぶっ子」の持ち楽器をどうしたらいいものやらと悩みはじめるのであります。
ご覧のように、首はないし手は小さい、腕は短い、それに上塗りで集中力は、ナイ。つまり、まだオンガクは、精々歌を唱う程度のことしか、教えることはデキナイでしょう。それでも、気合いでバイオリンを持たせてイクという、無理難題を少しでも可能にする方法を少しづつ考えてみましょう。この絵は、上図の半年程前、1才と10月位のころのものですが、この時点ではまだ、勿論ですが自発的にバイオリンを構えることすら、できません。しようとするのですが決まらないのです。もどかしいからでしょうか、すぐに諦めます。「やっぱりやらない...」と嘆いては、楽器を手に入れてやったオヤとしてはイマイチ得心が行きません。それで少し手を添えてやったりして、機会を与えれば、楽しげに真似事をしてくれはしましたね。
昔は、割合普通に最小サイズ1/32は売られていて、2才始まりも結構ありました。今はあまり、聞きません。勿論バイオリンを教えさせられる先生は、ある限度を通り越すくらい大変です。如何に限られた時間で子どもをあやし、なだめ、気分を向けさせて、この瞬間に導くか。ほんとの「瞬間」一瞬です。音楽学校では習えない特殊な技能です。預ける親は、たかだか1分に満たない「レッスンらしいこと」の為に月謝を払うのを馬鹿らしく感じるもので衝突もあると聞き及んでおります。
しかしこれは、時間は掛かるものの導入としては必要なことで、言葉が通じるようになる、あと2年後ならば苦なく出来ることではあります。つまり、この時点で先生に「教導」を強いるのは酷であり、有効な方法とは思えません。大体その時間に、言葉と指導が効果する「教え子」に取掛かった方が結果を得られます。
しかし2才から、というには別の意味があり、乳児から幼児になるあたりで、バイオリンに触れることが、便所に行くこと、飯を喰うことと同じ、当たり前の普段の行いに出来るか出来ないかという問題をクリアする為の時間なのです。生活の方向付けという、音楽とは余り関係ない部分を具現する行いです。幼稚園に通うようになって、回りにバイオリンをやっている子は「居ない」環境で始めることは、仮令自発的な希望から始まったとしても、普通の行いではないのです。
その為に、そう考えた親には、努力義務が生じてしまうのです。同居して寝起きし同じ時間を過ごす者や、普通に会い普通に過ごせる近親者がすべき努力であり、月謝を払うからといって「あかの他人」の先生にそれを押し付けるのは問題です。今は、楽器のほうの考えも納得出来るものになって来ました。売る方としてみれば、売れなくなって来て慌てたとも思いたいのですが、実際は幼児教育というのが進化したからのようですね。どうこうするうち、米国の一部の小学校では、バイオリンの演奏を教わる「正課」を取り入れているところもあります。
この二つは両方とも1/32の楽器です。上は今っぽいもの、下は旧い考えのものです。何が違うかというと、一番の違いは、指板の幅です。下の楽器は、フルサイズの投影縮尺により採寸されたものです。いわゆる、模型的手法で設計されています。見かけはしんなり、フルサイズと何ら変わらず結構なのですが、流石に子どもの手を以てしても、細すぎ、運指を期待するのは少し難儀です。しかしながら、一流作家のマスターメードということもあり、木目の幅迄「縮尺」を意図して大変細かく、裏と横は見せていませんが超コマカイ虎目が「縮尺」で、フルサイズのものと殆ど同じ数が走っています。板厚は、押すと凹む位に削り込まれて仕立てられ、塗りも本格的で、寒い日にはちゃんとマイクロクラックが現れます。高価でもあり、音も大変美しいのですが、まあ、百歩譲って、大人の為のコレクションアイテムで、危なくて「幼児」に持たせられない。逆に上の楽器は、ずんぐりしてはいますが合奏を期待させるだけの音量を作れる大きさにされ、ネックは実用的に太く幅広で、かつ丈夫です。子どもに試させる為の立派な道具に仕上がっています。値段も、昔に比べたら安くなり、一日ゴルフや釣りを辛抱すれば済む位に纏まっています。そういういいものを使えるのですから、何とか普通に「持てる」位にはしてやりたいと思うものです。
如何せん、首がないもんですから、普通に売っている「肩当て」などは役に立ちません。いらないという人もいますが、実はその役割、子どもにとっては楽器が滑り落ちないようにできるものでもあり、案外大切です。
これは店主が40年弱前、4才のときに使っていたもので、サイズは1/10です。この前のものは貸与された1/16で、半年後位にこれを求めました。クッション状の肩当ては、あご当て金具に共締した鋼鉄のフレームに差込んで使うようになっていて、3500円のオプションだった記憶をもっています。
特許の表示のあるこの肩当ては、これをあてがわれた時点ではやはり分厚過ぎて使えず、外されてセーム革を畳んで肩において使っていました。これを設置したのはさらに一年程度経ってからで、その後は大層結構な働きをし、楽しく弾けたものです。この楽器の後、先輩少年のお下がりの1/4を借りた時は「センパープリマス」というブリッジ型の肩当てになり、これが納まり難くて苦労したことを覚えています。
そういう訳で、やはり楽器を滑らせずに持ち易くする何かを考えてやりたいと思うのです。そこで、こんなものをこしらえてみます。
材料は、在り来たりな飾り棚の敷物と髮留めのゴムひも、綴じひもです。アンコにはスポンジを少々詰め、余り高さが上がらないようにします。綴じひもを、あご当ての金具に絡めて固定と位置調整をする格好です。元々滑り止めの性能がある素材を使って、つるつると小さな肩からこぼれないようにしてやるだけなのですが、何とか努力して持とうとしている助けになる効果は結構あります。
さらに、あご当てはもう可能な限り下げ詰めます。あご当ての上に滑り止めを貼るという考えもあるようですが、幼児は案外見た目にうるさいのを感じているので、見かけが大人のものと極端に変わる手法は避け、あくまでも首の長さに合わせる方を重んじます。簡単に書いていますが、あご当ての下げ付けにはあご当ての足部分を削ったり、金具の有効長を詰める作業が伴います。DIYで出来そうな位に思えますが、このサイズのフィッティングは楽器の生産台数と同じ数だけしか作られていませんので、補充不可能です。そして、弦高。これは大人が奏でられても子どもには無理があることを強く認識して徹底的に詰め下げなきゃなりません。自分が子どもだった頃のことを思い出せば分かろうものですが、何も思うように行かなくてもぞもぞと繰り返すうちに、ポロリと「できたっぽい」瞬間に巡り会ったら、得意になって一層自分のものにしようとした筈です。何ヶ月も掛けて、ようやく弓で糸を擦ると音が出ることを会得した子どもが、次にひっそり目指しているのは「糸を押さえて音を変える」ことです。
こちらとしてみると、折角開放弦を鳴らせるようになったのにまたギコギコのノコギリストに逆戻りしたようでがっかりですが、本人はその積もりはない模様で、懸命に変化を探しています。弓で擦りながら震える糸を左手で弾く等という、大人では神業的なことをしてみたりし、何か起きるであろう変化に迫っていこうとしてます。しかしながら、運指と擦弦を同時に行うと言う高度な連携にそう容易く到達させて貰えません。すんなりやられては大人の幾星霜を蹴散らされることにもなりますけれど、御心配なく。
ネックの裏のここを親指で支えて、人さし指をここに当てて、押さえて..と手とり足とり教えて何とかなるにはあと2年待たねばなりませんが、その時にバイオリンを与えては、バイオリンは、音楽をやる為の特殊なものになってしまいます。店主はそうしてこれを音楽の為の荘厳なものとして崇めることになり長年を費やし、「そうこれは箱、音の出る箱、余り難しい構造でなく、旨く作るといい音がする」と悟れる迄に齢を重ね、室町時代なら既に寿命が尽きている年令になってしまいましたが、ここでやっていることはむしろ、「これバイオリン、ほれ楽しい音がする」という人を予め作ることなので、出来るだけ容易くそこに辿り着く支度をしてあげておく必要があります。さらなる準備として、「いつもつかえるようにしておく」必要があるようです。この年代の子どもが皆そういう訳ではないと思いますが、楽器は、箱にボコボコと投げ込むように仕舞われている玩具と違い、ちゃんと大切にケースに「収納」されており、取出すにも相応に時間が掛かります。子どもにとってはそれを取出すというより「取出される」時間も既にこれに取掛かっているべき『時間』に組み入れられていて、集中力の償却が始まっているようです。楽器を取出し、調弦している間に、肝心の集中力が「タイムアウト」になってしまうのです。子どもが気付かぬ夜のうちにでも少なくとも調弦を済ませ、弓はボタンをひと回しするだけで準備完了となるようセットしておいて、「さ、ばおちゃんやろ〜」といった瞬間ケースが開き、楽器を手渡せるようにしておくと、より長く楽器を触っていられるようです。
幼児に調弦なんて、というのは、始めから捨てて掛かっている考えです。そこではやはり、楽器は音楽の為のものと崇める姿勢に立ち戻らなければならないと思います。ふとして出た音が、或いはそうしようとして出た音が、偶然出たとするよりも、発せられるべくして出たと考えるようにして下さい。こんな細かい楽器の調弦は、タイヘンです。発表会やコンクールでなら、別途費用を要求するオプションとされる例も多い行いですが、その労を厭うようではここまでの努力は水の泡です。人にもよるのでしょうが、毎日やらせようとすると、飽きてしまいます。すきなものも、パンが好きかと思ったらいらないといってごはんを要求する、またそうかと思い込んでいるともちがすきだという。それでつきあっていると、もちはいらないという。ぐるぐる何かを思い出しては執着します。そのサイクルの中に嵌まるように調整しないと絶対拒否するもののグループに入れられてしまうようで、バイオリンがそれでは困りますから、充分段取りを整えて、好まれるものに仕向けていくようにしなければ、先のレッスンは望みようもないでしょう。
また、これは大切ですが、時折、自分達大人も、自分の「大きな」楽器ではなく、子どもが使うコレを使ってダシモノを演じる必要があります。バイオリンを嗜んだことがある人なら兎も角、やったことがない人にはちょっと酷なことのようですが、何かひとつふたつ、これで弾いてみせられる曲をつくっておくことは効果的というか、必要です。この頃の子どもは大人がやることを全て真似てはみる、のですが、出来ないこともそれだけ早く悟り、出来ることだけを選んでやるようになる様子です。大人が大人のバイオリンで何かを弾いて聞かせても、自分のものに比べ大きい「それ」に興味を示すだけで、バイオリンで行う演奏自体には興味はないようです。そればかりか、逆効果的に、自分の「それ」では自分は何も出来ないので、「できないもの」にしてしまうようでもあります。実はそうなると成果は何週間か後ずさりしてしまい、取り返すのに相当な演算と戦略を必要とし、もう場当たり的な戦術は通用しなくなってしまいます。さらに、大人がやれないことをやらせようとするのも無理があります。結局、2才ではそれだけ、自我が薄いことを証明しているようなものですが、そこで動物に芸を仕込むように、それをやれば甘いものをやる等好条件で釣るのは建設的なやり方ではありません。やがて内容が高度になれば、報酬の高度化も同時に求められるようになります。バイオリンには報酬はないが面白いものという地位を意識に与えられるようにするには、「皆やってるよ」、のような、ローカルな義務設定をして見せる必要はあります。
そんな感じでまとまりを付け、数ある電子音の玩具より楽しそう、凄そうな魅力的なものにし、接することが普通な環境作り。バイオリンは勿論必要ですが、それを取り巻く状況にも気を配り、当たり前にすることが、目を向けさせるこつのようです。
そうしてあれこれ狙って半年の間に、冒頭の写真の子は、大体百回とすこしバイオリンを持ち、構え、何かしらを試みました。そのうち、自らバイオリンのケースを持って、やるやるっといってきたのは十回程でした。今のところ、まだ自分でケースをあけることが出来ないのです。ジッパーを真直ぐ動かすことは出来ますが、彎曲した両端部を、タブを持ったまま回せないので開けられないのです。昔のような留め金なら、恐らく開けるでしょう。そういう鞄は開け閉め出来るのです。今はそういうケースは作らないとないようなので持たせられそうにないのですが、ジッパーが開けられるようになるのが今後の楽しみ(楽器じゃないんですが)なのです。
あくまで、バイオリニストを育てているのではなく、バイオリンを普通の道具として扱う人を育てている、一例です。バイオリニストになりたくなったら、勝手になって頂戴、余は存ぜず構わずである...。その姿勢を曲げる積もりはないのです。