:ショットガン種目・クレー射撃とゲームシューティングについて:

日本人にとって射撃と言えばこれに留まる程一般的に親しみ易い競技です。散弾銃(ショットガン)で飛翔する標的を破砕し得点します。
国際ルールによるトラップ、スキートがやはり最も普及していますが、進駐軍が持込んだアメリカンルールによる射撃も若干乍ら射撃場施設として残っています。その他、国際ルール射撃場を利用したローカルルール射撃会も多く催され、ハンティングルールを行使する猟友会の射撃会も有名です。
見てもやってもアクティブで、遊興性もあり、広いフィールドでのスポーツフィーリングを楽しむ為に競技を目的とせず楽しむ大勢にも親しまれています。

一般的には20才から、未経験でもいきなり許可される散弾銃ですが、クレー射撃協会の推薦を受けることにより18才から行なうことが出来ます。推薦は自治体単位協会の下位団体である大学射撃部や地域射撃協会からの入部入会と、射撃準備教習受講が切っ掛けとなりますので比較的簡単です。しかし、装弾は大型、かつ複雑であり価格が比較的高額、射撃場はライフルのように原っぱ同然でも使えるものでなく大掛かりな標的放出機を備える必要と大量の飛散弾の回収の為の舗装施設の必要が重なり使用料金も高額、標的も工業製品なので高額となり、実質費用はどんな射撃カテゴリを持って来てもこれを凌ぐことは出来ません。そのため経済的なバックグラウンドが絶対必要な種目であると言えます。

銃器もライフル銃に比べ格段に高額です。まともに競技に使用出来る銃器となるとどんなに精査したものでも50万円以下では耐久性や安定性、運動性に何等かの欠点が克服出来ない形で表れ高得点を安定して射抜き続けるには無理があり、推奨されるものは百万〜五百万円です。トラップ射撃では、射手の右側に排莢する自動式散弾銃は使用出来ません。スキート射撃は一人づつ射台に入ることから自動銃を使用する射手もいますが、1ゲームで百発の規定発射量がありますので、耐久性の問題があり、何れの場合も射撃用に設計製作された専用銃が、多くの場合必要になります。その製作もまさに工芸であり、昨日今日の職人もどきではどの工程に就いてもとても製品に結びつきません。高価なよい銃は決まってよい作者から齎されるもので、凡そ価格で品質を見ることが出来ます。
現在は装弾の装填散弾量ショットボリュームが24gと昔に比べ大層すくなくされており、弾幕が小さく高得点を得るには高精度の照準の連続技術が不可欠ですので、高価な銃を以てしても膨大な練習量を継続しなければ選手生命そのものが危うくなります。元々屋外の競技なので、台風並の強風を除く全天候において中止されることはなく、様々な天候気象の条件下でも実力を脅かされないよう訓練を積まねばなりません。私も時間100mmを越す豪雨の中、トラップ競技の屋根付き射台にも拘わらず、吹込む跳ね返りに泥まみれにされ乍ら雨に打ち下げられ飛翔の不安定な難しいクレーにこれまた雨粒で減量する小さなパターンで挑んだことがあります。
出だしはARのように取っ付き易いのですが、負荷が大変大きな射撃カテゴリで、貧乏暇無しは出入り禁止かも知れません。第一の資本はオカネそのもの、続いて超三次元的な感覚を磨く練習量と継続なので、経済的に常識を外れた余裕のある、長年経験を積んだ高年齢者が常に上位を占めるその様子は、若さ際立つライフル射撃とは正反対です。平日の射撃場の駐車場は、庶民なら一生掛けて支払う住宅代金を軽く倍程は凌ぐ価額の乗用車があたかもショウのように並ぶのは普通で、射撃場が極至近であったとしても、その一群に徒歩乃至は自転車で割り込むのは相応の度量、さらに射撃場の予定は週末に関しては殆ど何等かの試合で借り切られており、練習日は大体平日となることから、練習には休職を余儀なくされます。
公式競技で満点の8割以上を取り続ける為には専ら月に4回のフルラウンド二回の練習を数年程度は継続せねば実現しません。ポピュラーゆえ本戦参加者は大変多いので、常に上位につけるには試合回数も必要。特に本部公式には年に二回は出場したいものですが、専ら宿泊を伴う旅行となります。年間50回のフルゲーム二回の練習コストは射撃に必要なものだけで約300万円、それに年6回の地区公式参加費と射撃コストが15万円程度、年二回の本部公式参加費と射撃コストが6万円程度、それに加えて、地区と本部の協会会費(微額)、旅費交通費(練習もあわせると相当な額)、同じ回数の休職日数(常人では無理)、高価な銃器の代金(ローンが終る前に寿命が来ますので現金払いで)と保守整備費と保険料、スポーツ賠償保険料が必要なのです。私は一寸暴挙に出て、1200万円使ったところで「降伏」尻尾を巻いて逃げました。金はあったからやったのですが、仕事が疎かになりホサレて潰れそうになってしまったのです!!!(でも良い思い出ではあります)。そういう経験から、「
お金に自信がなければやるな!」と、自信満々で申し上げておきます。
ちなみに国体本戦を狙うなら年間5万発以上、ワールドカップやオリンピックを狙うなら当面3年間は年間10万発以上(一日400発以内の法定無許可消費量で割るとフルゲーム1日4回250日の練習量・銃の寿命は凡そ20万発)の練習量といいます。
射撃場で面妖な高得点を平然と叩き出す人は余程の例外(たまに凄い苦労人がいらっしゃいます)がない限りその人なくしては最低数百の家庭が生活に窮する立場の人乃至はさらなる良家の子女ですから、くれぐれも失礼のないように。日本人はこうした上下関係に長年疎くされていることが大変残念です。元々格差は「楽しむ価値のあるもの」なのです。格差なくして世界は成り立ちません。特に経済界は格差あってナンボノモノなんです。
多くの庶民にとってクレー射撃の現場に居合わすことが出来ることは、極短時間でも「別世界」に臨席出来ることでもあり、そうした緊迫感を年に数回でも楽しめる機会と捕らえることも出来ますね。どの競技種目でも、長じた方はとても穩やかで優しく心豐かです。厳しい訓練に精神を鍛え浄められ、やがてそうした境地に至られたのです。達成者たちの立ち居振る舞いを目にすることで、私等は荒んだ心を洗ってもらいます。そして同じようなことをすることで可能性や夢にエネルギーを注ぐ回路を少し開きます。かくゆえ、私は射撃場を心の銭湯だと思って通うのです。同じようなことを英国やドイツで聞いたことがありますから、あながちぶっとんでいるとは思いません。

ショットガンは銃猟(ゲームシューティング)に専ら使われるもので、狩猟用途の軽量軽快な銃器は昔から多数普及しており、美的にも優れたものが多数あります。クレー射撃に使用することも可能といえば可能なのですが、軽量にする為耐久性が犠牲になり、本気でクレーに対しルールどおりの連発を続けていると早々に消耗してしまいます。修理には限界があり、ライフル銃に比べ工芸的要素の強い散弾銃は高価ですから、無用な発射は控えなければ銃を生涯使用してその特性を射獲に繋げていくことが出来ません。

散弾銃が専らライフル銃より高価な理由のひとつとして、銃身の製造がライフル銃のような機械に頼り切る工法を取れないことが挙げられます。ライフル銃身は冷間圧延といって、刳り貫いて筒状とした鋼材に型となる棒を差込み、熱しないで外からガンガン力を掛けて萎め乍ら延ばしていったものから直ぐ整形に移り、ライフルを切ります。散弾銃はその後加熱しないように改めてゲージに刳り貫き、チョークを加工し整形、2連銃の場合は仕上後二本の銃身をハンダ付けしますが、ゲージあわせをした後は二本の銃身は既にセットとして整形することや、両銃身の目的に応じた精密な角度合わせ、ハンダ付けの技術について、試し乍らでは出来ない熟練の手作業が欠かせず、流れ作業の量産工程に任せられなくなります。同時に、元折れ銃ではその段階で既に踝物(機関部の枠となる部分)が加工されていきますが、これも「他の銃身セット」にはもう流用出来なくなります。これもやはり手作業で、美粧をいれる場合は必要となるマージンを残し(数ミクロンです)きつめにあわせられます。これらは工業の様子をみせていますが芸術的工芸であり、商品価値に至る迄には長い修行と研鑽が欠かせず、工程中随所にこうした高度技巧が必要な、特に元折れの散弾銃は高価になるのです。同じような工程をもつダブルライフル銃も、同じく非常に高価です。

元折れ銃はガタが出るからといって自動銃など単身銃を使う人がありますが、それは良く使われた古いものを持ったなど他の理由が考えられます。普通はかなりの耐久性があるものです。

銃猟は射撃場での練習を幾ら積んでも必ず多くの猟果を得られるとは限らず、猟場における鳥獣の観察と地の利が一番の資本になりますが都会に住んでいる人には自由になるものではありません。その為、勢子(せこ)或いは案内人として務める人の御世話になる場合が非常に多くなります。現在、勢子を本業として周年の生計を立てられる人は極僅かです。同時に銃猟で生計を立てている人は全く居なくなっています。勢子は都会に住む銃猟家にとって必要なサービス業ですが、その都会側が年々経済的沈下を見せており、昭和年代から平成年代に入ると共に急速に勢子の住まう地域へのサービス料金流出が萎みその結果貴重な経験が駄賃程度にしかならなくなり、受け継ぎ手がほぼ皆無となっており、銃猟の実行そのものが厳しくなっている現状にあります。銃猟家も高齢化が進み、昔主な担い手であった20台のアクティブな銃猟家は珍しくなってしまいました。

狩猟環境も厳しさを増しています。ほぼ日本独自ともいえるハンター損害賠償保険の提供元が急減しており、狩猟登録に必要な補償証明を得る為に利用してきた保険が無くなりでもすれば、かなり多くの銃猟家が猟を諦めなければならない事態に陥る可能性があります。狩猟が都会と地方を結ぶ文化交流のひとつであると考えるなら、何とか継続出来る制度やサポートを残していって頂きたいと切に願うばかりです。